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(らいこうじ)〈時宗〉 |
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西御門の閑静な住宅街の奥に佇む、ひっそりとした寺。鎌倉の寺院としてはめずらしい、民家風のたたずまいである(1994年春、新本堂落慶)。ここは、鎌倉三十三所観音霊場第五番札所。
開山は時宗の開祖、一遍(1239〜1289)とするが、一向とする説もあり、本寺の寺史とともにいまだ明らかではない。一向は一遍とまったく同時代に全国を遊行し、踊り念仏によってその教えを広めた憎という。
本堂には、本尊阿弥陀如来像と1384(永徳4年)宅間浄宏作と伝えられる地蔵菩薩像が安置されている。もとは西御門にあった報恩寺(現在は廃寺)の本尊だったもの。
鎌倉幕府が開かれ、以後40年、幕府が宇津宮辻子(鎌倉市小町二丁目)に移るまで、日本最初の武家政権の中心の地であった。
大倉幕府の背後の山は大倉山といい、中腹には源頼朝や大江広元の墓などが伝えられている。
● 源頼朝墓(みなもとのよりともぽ)(法草堂跡)
祭神を源頼朝とする白旗神社前の石段を登ると、源頼朝墓と伝える石層塔がある。関東武士集団の棟梁として東国を支配し、ついでこの地に武家政権を樹立した頼朝も、1199(正治1)年に53歳で生涯を閉じた。
遺骸は、大倉幕府を一望する山の中腹にあった頼朝の持仏堂に葬られ、これを〈墳墓堂〉と称したという。貴人の納骨堂は法華堂ともいうので、やがて〈法華堂〉と呼びならわされるようになった。
法華堂は鶴岡ハ幡宮の管理であったため、明治初年の神仏分離で廃され、如意輪観音、地蔵菩薩などは来迎寺に移された。
そのお堂跡に、玉垣に囲まれて頼朝墓と伝える石層塔が建つ。 なお、白旗神社は神仏分離の際に建てられた神社である。
● 大江広元墓
源頼朝墓の東の山続き、二層に分かれた石段を登りつめると、大江広元、島津忠久、毛利(大江)季光などの墓がある。いずれも供養塔なのであろう。
広元(1148〜1225)は、頼朝の側近として鎌倉幕府の中心にあった人物で、明王院の裏山にも広元墓と伝える石造五層塔がある。
忠久は島津家の祖で、頼朝の庶子といわれている。季光は広元の第四子で、毛利家の祖である。 |
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住所 |
鎌倉市西御門1−11−1 |
電話 |
0467-24-3476 |
拝観料 |
有料 |
拝観時間 |
10時〜16時 |
アクセス |
JR鎌倉駅東口より金沢八景・太刀洗行きバス大学前又は岐れ道下車徒歩10分 |
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来迎寺・寺史さらに詳しく |
宗派 |
時宗藤沢清浄光寺末(じしゅうとうたくしょうじょうこうじまつ) |
山号寺号 |
満光山来迎寺(まんこうざんらいこうじ) |
創建 |
1293(永仁元年) |
開山 |
一向上人 |
開基 |
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本尊 |
阿弥陀如来 |
寺宝 |
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木造如意輪観音半跏像と木造地蔵菩薩坐像。ともに県の重要文化財。どちらも写実的な衣紋が宋朝様式の典型だが、特に如意輪観音像の土紋装飾は、年代を表す責重なものである。
他に足腰の痛み、頭痛、目の病に効験があるという、俗に「自休さま」と呼ばれる木造跋陀婆羅尊者立像(市文)もある。 |
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(えがらてんじんしや) |
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石段を登った正面に朱塗りの拝殿が建ち、右手には樹齢900年の大イチョウがそびえ立っている。1104(長治1年)創建の古社で、源頼朝が大蔵幕府の鬼門の守護神としたという。祭神は菅原道真で、受験シーズンには合格祈願の若者が目立つ。白梅・紅梅が咲く2月が美しい。拝殿の左には、漫画家清水昆が河童の絵を描き、川端康成が題字を書いたかっぱ筆塚がある。その奥の、154人の漫画家が河童の絵を描いた絵筆塚もおもしろい。
菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする当社は、太宰府天満宮と北野天満宮とともに日本三天神の一つといわれる。道真(845〜903)は平安時代前期の学者・政治家で、死後〈天神〉として祀られ、学問の神としてあがめられてきた。多くの合格祈願の学生が訪れ、絵馬が奉納される。
1104(長治1)年、当地に天神画像軸が降臨したととによると伝える。源頼朝は大倉幕府の鬼門の神として尊崇し、徳川歴代将軍も鶴岡ハ幡営の造営・修築に際して、その余材を当社に与えて社殿の修造をおこなわせている。 |
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住所 |
鎌倉市二階堂(にかいどう)74 |
電話 |
0467−25−1772 |
拝観料 |
無料 |
拝観時間 |
8時30分〜16時30分 |
アクセス |
JR鎌倉駅東口より金沢八景・太刀洗行きバス岐れ道下車徒歩10分
JR北鎌倉駅東口より大塔宮行き 天神前下車徒歩5分 |
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かまくらぐう)(大塔宮(おおとうのみや)) |
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悲劇の護良親王を祀る神社護良親王が幽閉されていたという土牢が残っている。
創建は明治2年で、祭神は大塔宮腹良親王。親王は父の後醍醐天皇とともに幕府倒幕と天皇親政の復活(建武の中興)で活躍したが、後に足利尊氏に捕らえられ幽閉、処刑された。本宮はその地に建つ。ソメイヨシノが咲く境内鎌倉宮は、大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)をお祀りするお宮(神社)です。
大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)を祭神に親王の終焉の地に明治天皇によって1869(明治2)年に創建された。
護良親王(1308〜1335)は、鎌倉幕府を倒して天皇親政を復活した(建武の中興。1333〜1336年)後醍醐天皇の皇子である。仏門に入って比叡山延暦寺の最高統括者(天台座主)となったが、幕府の崩壊を計って還俗(げんぞく)し、建武の中興に大きな働きをなした。しかし1334(建武1)年、足利尊氏(あしかがたかうじ)に捕えられ鎌倉の東光寺に幽閉された。
当宮の境内は、東光寺旧跡と伝えられている。本殿背後の山に穿たれた土牢に、親王は幽閉されていたという。翌年、鎌倉幕府復活のため挙兵しただ北条時行軍に敗れた尊氏の弟直義は、護良親王を殺して敗走した。親王の首は、土牢の東方の藪の中にすておかれたままであったという。
これを聞いた理智光寺(廃寺)の住職が、寺域の山上に手厚く葬った。 |
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住所 |
鎌倉市二階堂154 |
電話 |
0467-22-0318 |
拝観時間 |
無料(土牢と宝物館の拝観は300円) |
アクセス |
JR鎌倉駅東口からバス、大塔宮行き(終点)下車すぐ |
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