湘南の古都鎌倉
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鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡
 
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極楽寺・成就院向福寺・実相寺・九品寺光明寺・補陀洛寺鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡鎌倉四季のはなごよみ

血風で生まれた鎌倉文化・謀略と血しぶきの鎌倉
源頼朝の開幕から頼朝の死 政子と悲劇の将軍
・頼家と実朝
実朝暗殺 源氏の滅亡
北条一族の執権
・日蓮と忍性の対立
蒙古襲来と北条氏の滅亡
◆ 源頼朝の開幕から頼朝の死

● 源 頼朝幕府を開く
頼朝が伊豆に挙兵したのは1180(治承4年)8月、伊豆国で反平氏の旗揚げをした源頼朝の軍は、一気に父祖伝来のゆかりある鎌倉入をはかったが、石橋山の合戦に敗れた、命からがら海を渡り、安房国へ落ちのびたのが8月29日であったが、間もなく安房・上総・下総・武蔵の地方武士が頼朝の麾下に進んで加って来た。間もなく南関東一帯を征服して10月はじめ、彼が念願の鎌倉に入った時は従う軍勢は数万人と伝えられている。一流人の身であった彼が、挙兵後わずか50日でこのような運を勝ち得た。いわゆる頼朝の鎌倉開府である。鎌倉を根拠地としたのは、先祖源頼義(よりよし)以来、源家の代々が東国で策源地としたのが、鎌倉だった。頼義(よりよし)―義家(よしいえ)―(義志(よしただ))―(為義(ためよし))―義朝(よしとも)―義平(よしひら)と、すでに数代に及ぶ。源家由縁の地であることに、間違いはない。強固な要害の地、頼朝が意図する武士統合の本拠地として屈強なところだったからだ、また との下総国の豪族千葉常胤(ちばつねたね)のすすめに従ったからだともいう。南・北・西の三方から山に囲まれた袋状の地形だったから、防衛には適している。
しかも東側には南北に走っている武蔵大路---今大路があり、この道は北方の亀が谷切通しから武蔵国に通じていたから、南方の海側から攻められたときには、北方に逃げることができた。つまり直方は、攻撃よりも防衛に、戦うよりも逃げることができる。鎌倉は、要害の地にふさわしかった。
 三浦半島の中心を通過する古い東海道や、東京湾内の良港武蔵国の六浦(今の横浜市金沢区)を基点とする海上交通のあり方からみても、鎌倉は南関東でも有数の要地であった。東国に生まれた最初の武士政権の首府としてふさわしい場所だったのである。
 鎌倉に入った頼朝は、まず先祖頼義(よりよし)が由比が浜近くに勧請してぃたハ幡宮を、山よりの今の鶴岡ハ幡宮の地に移し、これを都市鎌倉の中心にした。また自らの居館を八幡宮東側に建設した。いわゆる大倉(蔵)の幕府である。 そして彼に従って御家人となった武士たちを統制する侍所(さむらいどころ)、一般政務をみる政所(まんどころ)(はじめは公文所(くもんじょ))、裁判をつかさどる問注所(もんちゅうしょ)など、世にいう幕府の三大機関をおき、東国の支配をおし進めた。
 頼朝による鎌倉開幕宣言は、1180(治承4年)12月12日、竣工した御所に、頼朝が入居する。亥ノ刻(午後十時)が定刻とされた。清浄無垢(せいじょうむく)の浄闇(じょうあん)が、選ばれた。 そして定刻、上総介広常館から、頼朝の一行が動き出した。先陣に立つのは侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう)(長官)和田義盛(わだよしもり)であった。北条時政(ほうじょうときまさ)・義時(よしとき)父子に続いて、足利義兼(あしかがよしかね)・山名義範(やまなよしなり)など源家一門、そして御家人中最長老の千葉介常胤(ちばつねたね)らが歩み、最末は畠山重忠(はたけやましげただ)だった。
 頼朝が寝殿に入ると、御家人らは十八ケ間の侍所に入り、二行に対座した。和田義盛が着到(出勤帳簿)をつけると、参集した御家人の人数は311人にのばった。 頼朝自身による、鎌倉開幕宣言であった。日本で最初
の武家政権の成立を祝う儀式が、堂々と執り行なわれたのである。
 武門でありながら貴族化してしまった平家一門は、権勢の頂点に立ったことによって、かえって武士階級の疎外感を強め、彼らから見はなされ、世上一般の反感を増し、離反への坂を転落しはじめていた。
 頼朝は旗揚げを敢行した。平家離れの気持を強めつつあったとはいえ、東国の武士たちにとって、頼朝に加担するか否かは大きな賭けだった。東国に多い源家に由縁ある武士たちには、嫡流(ちゃくりゅう)の御曹司である頼朝を守りたてることは主家再興を助け、ひいては各自の所領や権益を拡げる途であった。またその他の在地武士にとっても、平氏に枯抗する武門の名家、清和源氏の嫡流(ちゃくりゅう)という毛並のよさは、門閥を重んずる彼らの気風からすれば、すこぶる魅力的であった。時流の動きを鋭敏に読み取り、頼朝に加担に踏み切るものが多くなっていた。これらいくつかの事態が複雑にからみ合って、武士たちは頼朝を担ぐことを決意していった。
 彼の構想した政治形態がととのっていくにつれ、鎌倉は活気ある都になっていった。この時期には、頼朝の胸中では平家討伐はもう最大関心事ではなくなっていた。
すくなくとも彼自身が直接に戦塵に身をさらさねばならぬことではなく、弟の範頼・義経らに任しておけばよいことだった。
武士の棟梁たる頼朝が真正面からぶつからねばならぬ当面の相手は、朝廷を中心とする貴族政治であった。
朝廷の貴族政治は力もないのに権威を振りかざす京都は、間もなく実質的に殆どの権益を頼朝に奪われながら、残された、空虚な権威にすかりつくことで、わずかな慰めを求めていた。
 そして鎌倉は武家の都として揺ぎないものとなり、頼朝は「鎌倉殿」と呼ぱれ政治の実権を権った。武士はもう貴族に隷楓するものではなくなって、鎌倉幕府の支配下に集った。彼らはみな期待以上の力を示した頼朝に満足して、鎌倉殿の御家人となったことを誇りとした。

● 平家の滅亡と源 義経の死
 5年余に及ぶ源平合戦の内乱を勝ちぬいた頼朝は、1185(文治元年)11月、京都の後白河法皇に追って、諸国に守護や地頭を任命し、反当たり五升ずつの兵糧米を徴収する権利などを認められた。いわば全国的な軍事警察権の獲得であった、 法皇死後の1192(建久3年)、頼朝ははじめて征夷大将軍に任ぜられ、以後は幕府の主宰者を将軍とよぶようになっにが、幕府の実体は、すでに守護・地頭の任命をゆるされた時点で確立していたのである。
 『平家物語』には、頼朝の弟義経の活躍と、その後の頼朝との対決など、多くの有名な物語がある。鎌倉に関係したものだけでも、義経が直接、頼朝に真情をうったえようとした腰越状とか、捕らえられた義経の愛人の静御前が、頼朝や妻の政子を前にした鶴岡ハ幡宮の舞台で、義経をしたう舞によって政子を感服させたとかの話がことに名高い。

● 頼朝の生い立ちと残忍性。
ここで頼朝の生い立ちについて語っておこう。頼朝は13歳から33歳までの20年間を流人として配所伊豆に暮らした。即ち少年期から青年期のすべてを、境遇の中で送った。この間の生活が彼の人間形成にどれほど大きく影響したことか。彼の独裁的性格も、神経質な細心さも、執拗な猜疑心も、根強い好悪の情も、すべてが養われたものといわれる。頼朝はあまり評判のよい人物ではない。
その不評の殆どが彼の義経にたいする。酷薄な仕打ちを 非難する声である。いわゆる「判官びいき」の見方からすれば、 頼朝は人情のかけらも待ち合わしていない残忍な男である。

●  頼朝の酷薄な仕打ちで、義経 無残
頼朝は征夷大将軍になる以前から「オレが奏上しないうちは、オレの御家人ともに勝手な叙勲をしないでくれ」と朝廷にクギをさしている。もとより幕府体制をつくった大江広元、頼朝を操った時政らの献策だ。 後白河法皇は、鎌倉の統制を無視して、一ノ谷合戦から京都に凱旋した義経に行賞を与えた。検非違使・左衛門尉----戦さ上手だけが取り柄の義経は、法皇の餌に見事かかった。
当然、義経は頼朝の怒りを買った。びっくりした義経は兄の怒りを静めようと屋島、壇ノ浦の合戦では、「殊に存念あり。一陣において命をすてんと欲す」----文字通り捨て身の先陣で、勝利を得た。1185年(元暦2年)5月、義経は平宗盛親子を捕虜として鎌倉にはいろうとした。ところが「宗盛殿はこれよりわれらがお運びする。九郎殿には御所さまのお声がかかるまでお控え下さい」と腰越で止められた。義経とその郎党は、しかたなく5月15日から6月9日まで、頼朝から召し出されるのを待った。その間の宿所が、腰越の満福寺といわれる。744年(天平16年)行基の開山した古義真言宗の寺で竜護山医王院満福寺と称する。
義経はここでいわゆる腰越状をしたため、頼朝に異心のないことを切々と綴ったという。義経記によればその日付が6月5日になっている。満福寺には腰越状の下書きやら、弁慶が墨をするのに、水を汲んだという硯池がある。さだかではないが、義経がここで腰越状を書いたことは、 「関東古義真言宗本末帳」にあり、その年代は後年の1633年(寛永10年)である。
 義経の目覚しい働きに対して、頼朝がなぜにかほどまできびしい処置を行なったか-----。それを鎌倉体制を確立のために、肉親の情もふり切ったとして片付けると合点のいかぬことだらけである。 だが平氏討伐には侍所の所司(次官)として梶原景時(かじわらかげとき)も従軍している。彼の役柄は軍監というより義経を監視することにあった。そして義経が腰越に到着する以前の4月21日に、景時の飛脚が鎌倉に届いている。大江広元(おおえひろもと)は体制確立のためにといい、北条時政も同意する。
 もとより景時の義経報告書がよく書いてあるはずがない。 さらには勝手に朝廷から官位を受ければこうなる-------と、これは御家人への見せしめより、後白河法皇へのあてつけであった。
 「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、頼朝が世に出てから誅された侍は数知れない。御一門では140余人に上るが、源氏ゆかりの者はことごとく、梶原の告げ口によって殺されたと記している。
 6月9日、ついに対面かなわず義経主従はすごすご京に引き返した。 鎌倉からの刺客・土佐坊昌悛が京・六条堀川の館に義経を襲ったのは、その年10月17日未明。この夜討ちは失敗におわり、土佐坊は六条河原で斬られた。
ふくろの鼠となった義経は、翌18日に後白河法皇に乞うて頼朝追討の宣旨を受けた。宣旨には「従二位源頼朝偏へに武威を耀かし、すでに朝憲(ちょうけん)を忘る。宜しく前備前守源朝臣行家・左衛門少尉同朝臣義経等をして彼の卿を追討せしむべし」とある。
 鎌倉にとっては思うツボであった。10月29日出陣。軍勢を黄瀬川まで進めたとき、海路西国に向かった義経一行が嵐に遭い、行方不明になったと飛脚があり、頼朝は鎌倉に引き上げた。当時、京、鎌倉間の飛脚は七日間で往来した。
 いよいよ黒幕の登場である。頼朝の代官として1000余騎を率いた北条時政(ほうじょうときまさ)が京に馳けのぼっていった。時政は強談判のあげく、11月25日、義経、行家追捕捜索の口宣、同29日諸国を北条時政以下頼朝の御家人に分賜して、庄園・国衙領(こくがりょう)を問わず反当たり五升の兵糧米を供出させることまで了承させた。
 12月6日これが正式の宣旨となり、頼朝は義経、行家を捕えることを理由に、日本国総追捕使、総地頭に任命された。
 1189年(文治5年)4月30日、奥州の藤原秀衡(ふじわらひでひら)にかくまわれていた義経は、秀衡の死後、その子・泰衡(やすひら)に討たれた。義経の首が黒ウルシの櫃におさめられ、美酒に浸されて、腰越の浜に届いたのは、6月13日であった。
 その首を途中の井戸で洗い浄めたという。小田急・藤沢本町駅から東へ500メートル、バス停のうしろに「源義経史跡、義経首洗井」の石碑と古井戸がある。
 藤原泰衡は義経を殺すことで保身をはかったが、そうはいかない。もともと奥州藤原氏は″殺しのリスト″にのせてあったのだ。鎌倉は罪人隠匿の罪で奥州藤原氏を討伐した。7月19日出陣、8月7日に合戦、そして泰衡一族はあっけなく滅び、頼朝は12月に凱旋した。すべては義経が腰越で、京都に追い返される段からの筋書どおりであった。 この合戦は頼朝にとって、かなり後味が悪かった。それで鎌倉に戻るなり、12月から永福寺(2階堂)の建立をはじめた。
 武功抜群の義経を底意地悪くいじめ抜きで、非業の死に追いつめたぱかりか、義経の愛人静御前が生んだ赤子を由比ヶ浜の海に投げ込む非道を教えてする冷血漢である。

● 源 頼朝の死
 頼朝の不人気は彼の冷酷さを誇張するにとによって一層印象づけられている。
しかし、頼朝の立場とすれば、後白河院(ごしらかわいん)の常套手役に籠絡(ろうらく)されて、武門の総帥たる自分の奏錆(そうせい)なしに任官し、自分の対抗者として利用されようとしている義経の無分別を許すわけにはいかなかった筈だし、ましで義経が弟であるだけに、より峻厳に機わねば、御家大の統制が崩れ去るのを最もおそれたに違いない。やっと作りあげた幕府のいる秩序を厳正に維持するためには、義経に対する骨肉の情などはものの数ではなかった。大の虫を生かすためには、小の虫は殺さねばならぬのである。
 いずれにせよ頼朝は武家政治の牙城、鎌倉幕府を築きあげた。彼の政治家としての手腕は掌もが認めねぱならない。
彼の性格、私行等についてはさまざまな話柄が伝えられている。
 1193(建久4年)ごろ、頼朝の周辺や鎌倉付近では、次々と事件が起こっている。まず富士の裾野で催された大がかりな巻狩りの際、曽我兄弟が父の敵の工藤祐経を討ち取った。曽我の敵討ちとして有名だが、実は殺された 工藤祐経は頼朝の寵臣であり、兄弟は祐経を殺した後、今度は頼朝の居所めがけて突進し、捕らえられた後に「頼朝にうらみを述べてから自殺するつもりだった」と答えている。 おそらく頼朝の一命をねらっての行動であろう。その背後には、何者かの黒い手が動いていたようである。
 少しあとには頼朝の弟の範頼(のりより)が反乱をはかったとして伊豆に流され、そこで殺される。また頼朝挙兵以来、身辺に従い、ことに地元の有力者として都市鎌倉の建設などに活躍をした大庭景義(おおばかげよし)らが失脚、追放されている。これら一連の事件の真相は不明であるものの、幕府内で大きな陰謀か紛争があったことだけは確実である。
 頼朝はやがて1199(正治元年)正月、53歳で急死する。原因は前年の1198(建久9年)の暮れ、御家人・稲毛重成は亡妻の冥福を祈るため相模川に橋を架けた。重成の妻が政子の妹である関係から頼朝は橋供養に出かけた。その帰路、落馬したのがもとで病に倒れ、死んだという。現在 平塚市と茅ヶ崎市にかかる相模川の別名が「馬入川」「馬入橋」となっているのが由縁である。
 武芸にすぐれた将軍にしては、ややふさわしからぬ死であり、種々の憶測の生じるところでもある。頼朝は橋供養の帰路、白昼、多くの亡霊に悩まされたとある。まず九郎義経と叔父の新宮十郎行家が現われた。そこを馳け抜けて稲村ヶ崎までくると、童子が現われて、安徳天皇であると名乗った。この亡霊を見たあと、頼朝は間もなく死んでしまうことになる。
 高雄・神護寺の頼朝肖像や東京国立博物館蔵の頼朝像から推察して、高血圧型だったようである。また脳出血の前後に、白昼この世の人でない者の姿が見えたり、話し合ったりする事例は現代にも見られる。いわゆる業の深さによるものであろう。
 それにしても、鎌倉幕府の歴史には血で血を洗うような政争が多い。歴史をひもときながら、いつも心が痛む、なかでも頼朝の死から北条氏の覇権の確立までは、紛争の連続であった。
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