湘南の古都鎌倉
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最終更新日 2024:12:01 湘南の天気予報 只今の時間  2024年12月15日(日)05時25分

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 湘南という地名は、何処から何処まで言うかはっきりしていません。歴史地理的な根源の土地に由来する地名ではなく、行政区分も持たない地名です。世間で言いなら わしている名称で、東京でいう「山の手」とか「下町」などと同じ、感覚的な領域です。
 湘南の由来には、大きくわけて、「相模国の南の地域、を意味する相南という言葉にさんずいがついて湘南になったという説と、日本地名研 究所編の「藤沢の地名」によりますと『「湘南」の湘は中国湖南省東部の洞庭湖に注ぐ川、湘江(湘水とも言う(全長817キロメートルの川))の湘をとったもの であり、さらに相模の国の相と、その南であるという意味で湘南となったものと思われる』という説があります。
藤沢市教育委員会発行の「湘南の誕生」によりますと『湘南の由来には、大きくわけて、相模国の南の地域、を意味する相南という言葉にさんずいがついて湘南になったという説と、中国湖南省の洞庭湘に注ぐ
川に「湘水」があり、その南の風光明媚な地域を指す「湘南」にちなんだという説がある。また洞庭湘に注ぐ瀟水と湖水の2つの川が合流するあたりの絶景を「瀟潮ハ景」といい、金沢ハ景などの名勝の原型であるが、江戸初期の沢庵和尚が江の島の風景を「瀟湘」に譬えたと伝えられている。いわば文人趣味の
世界に現れた名称であり、雅号としての使用例は、中世の禅僧の湘南淙?や明治の漢詩人大久保湘南などにもみられるが、これが地域名として使用され、箱根を函谷関に比定するのと同様に、「東洋のマイアミ」ならぬ「日本の湘南」として相模湾沿岸を呼んだというのである。』とあります。
いずれにせよ、歴史地理的根源の土地名、行政区分名でもありませんが、「湘南」というイメージは、今後も語り継がれていき、定着していくと思われます。

● 
実在した湘南村

湘南が行政区分を持つ固有の地名として実在したときがありますが、神奈川県の北部、相模川の渓口部、現在の津久井湖の城山町で、旧あたりの小倉村と葉山村が合併して明治22年(1889)に 湘南村が誕生しています。津久井郡の湘南村は昭和30年(1955)に川尻村や三沢村の一部と合併して城山町になりましたので現在は存在しませんが、明 治39年(1906)にできた湘南小学校は現存しています。この湘南村が、現在の湘南地方と呼ばれる発祥であるとは言えません。湘南といえば、相模湾沿岸の海にあるからです。ここで注目されますのは湘南村が出来たのが明治22年(1889)だということです。これは徳富蘆花が「湘南雑筆」を書いた時期より10年も前のことになります。「湘南」を海と結び付けたのは若しかすると徳富蘆花ではないだろうか、とくに湘南の地名を意識して使用したのではあるまいが、「湘南雑筆」が、湘南の風光の美しさを全国に知らしめるとともに、1898(明治31)年から1900(明治33)年にかけて蘆花が湘南を使用したことで、湘南の地域呼称も全国的な知名度を獲得するにいたったのである。


徳富蘆花の「湘南雑記」
「湘南の誕生」より


 
『蘆花は、1897(明治30)年1月に東京赤坂から逗子の柳屋に転居、「湘南雑筆」の基となる原稿の執筆を始め、12月まで執筆した。翌98年元旦に『国民新聞』に「湘南歳余」を掲載したのを初めとして、「写生帖」の題で連載し、自然詩人の名声を得るようになり、1900年8月に「湘南雑筆」を含む『自然と人生』を出版したのである。「湘南雑筆」に描かれた湘南は、逗子ないし逗子から見た相模湾や富士・箱根・伊豆の山々であるが、そこで描写された湘南の景観は、けっして南画趣味の風景ではなかった。ヨーロッパ的な視点から試みた自然のスケッチであった。『自然と人生』は、1900年8月の初版発行から11月には3版を重ね、当時としては爆発的なベストセラーとなった。1928年5月には実に373版に達し、50万邦を突破したという。このヒットが蘆花を専門的文筆家へと踏み切らせることとなったのである。
 その意味からいえば、湘南の美を新しく社会に認めさせた蘆花のほうが、影響力という点でははるかに大きかったのである。
 ヨーロッパの視線で、湘南の自然の美しさをまったく新しく描き出してみせたこの作品は、それまでの風光明媚という伝統的な風景観を打ち破り、湘南の美を西洋的な視点から決定的にイメージづけた非常に重要な作品であった。そしてそれは、葉山から国府津あたりにかけての相模湾沿いの地域を湘南と称す
ることを全国的に印象づける契機となったという点でも非常に重要であったのである。
 蘆花は、とくに湘南の地名を意識して使用したのではあるまいが、「湘南雑筆」が、湘南の風光の美しさを全国に知らしめるとともに、1898(明治31)年から1900年にかけて蘆花が湘南を使用したことで、湘南の地域呼称も全国的な知名度を獲得するにいたったのである。』
では湘南という言葉が何時頃から、ほぽ現在の地域を指すものとして使用されるようになったのだろうか。この点を明らかにした文献が今まであまりないのは、特定が困難であるためであるが、』社会的に定着したことを示す資料としては、マスコミによる「湘南」という名前を使用して地域呼称していることがわかりますが、湘南の名前を世間にしらめさせたのは徳富蘆花の大きな功績?だったのではないでしょうか。 

● 幻の湘南市

「湘南」という地名から考えてみますと湘南台など海からかなり離れていますし、JRの湘南電車は東京から沼津まで走っています。「湘南」は行政区分では ありませんから。そこで「湘南」というブランドを勝手に使っても誰からも文句はつけられません。「湘南市」という行政区分を作ろうという発想が今までに無かったわけではありません。湘南のイメージがもたらす波及効果に期待する動きが活発だった自治体として、平塚市があげられます。自動車車検新登録事務所の誘致運動だけでなく、それ以前からも、平塚市の名称を湘南市に変えようとする運動や平塚駅を湘南平塚駅に変更したいとする意見が地元有志の間からもあがっています。平塚市は、茅ケ崎市と大磯町の間に位置する市であるが平塚市やそこに住む市民は、その地域を湘南のイメージと結びつけることによって、市全体の活性化につなげようとしていたのです。
 
自動車車検登録事務所が平塚に設置されることとなり、湘南ナンバーの実現が確実になったことに伴い、平塚を中心に大磯・二宮と合併して50万都市「湘南市」に しようといううごきがでています。(平成4年1月8日付「朝日新聞』)。 さらにこれまで二回ほど「湘南市」構想が持ち上がっています。最初は昭和15年(1940)10月1日に藤沢町と片瀬町が合併して市制を敷いたさいに「湘南市」の名称も候補に上っていますが実現せず
「藤沢市」となりました。次は戦後の昭和31年(1956)7月21日に寒川町長、同町議会長らが藤沢市・茅ケ崎市両市に合併して「湘南市」にしようと申入れをおこなっていますがこれも遂に実現には至りませんでした。
この頃から県立湘南海岸公園がオープンし、これに伴って江ノ電は「西方駅」を「湘南海岸公園駅」と改称しており、若大将・加山雄三はさっそうとスクリーンに登場して湘南サウンズを歌いまくり「若者の湘南」のイメージを決定づけることになります。そして湘南港が江の島に建設され、東京オリンピック舞台へと変貌を遂げて行く訳ですが、この間に「湘南市」構想が具体化することは殆ど無かったように思います。
 平成14年(2002)湘南地域の21世紀のまちづくり」という事で、湘南市研究会が発足し 藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、寒川町、大磯町、二宮町の合併話が持ち上がりました。湘南市研究会は、自治体が厳しい財政状況に直面し、かつ少子高齢社会、地方分権時代を迎える中で、湘南地域の将来のまちづくりを研究しようと意見がまとまった3市3町で、平成14年1月8日に研究会をスタートさせ、3市3町がもし一つになったらどのような姿になるか、研究を進めてきました。 しかし 平成15年4月の統一地方選挙で、平塚市、茅ヶ崎市の首長が新たに就任し、研究会について、各首長の考え方が異なるものとなり、共通理解のもとで研究を進める条件が変わり、湘南市研究会はおわり幻の湘南市になっています。

● 湘南ナンバーの誕生による「湘南」の区域

「湘南」地域とは全く感覚的な領域です。ですから湘南といえばその中心は逗子であったり、江の島近辺であったり、茅ケ崎海岸であったりしました。ところが湘南ナンバーとなりますと、これは状況がかなり違ってきます。湘南ナンバー創設への要望が地元有志や自治体から出されていた当時、若者たちの湘南ナンバーに対するイメージは、大方「相模ナンバーは古臭い。湘南ナンバーだどナウい”。」というものであったようです。 “ナウい”を言い換えてみれば、「流行にのっている」.「時代にあっている」などの言葉があてはまる。「湘南ナンバー」の車でカッコよく走りたいという声は、昭和58年(1883)頃からあり、相模ナンバーが飽和状態になったこともあって平成4年(1992)に自動車検査登録事務所が平塚市に新設されることになり、一挙に湘南ナンバーの実現が具体化してきました。この機会に湘南ナンバーの対象区域への編入を希望する自治体があいついだといいます。この事務所で発行されるナンバーについては、有志団体や平塚市、茅ヶ崎市、藤沢市などの地方自治体の強い後押しもあり、最終的には湘南ナンバーに決定し、全国で85番目の新ナンバーとして発行されることとなりました。運輸省が新事務所の処理能力と各自治体の車両登録台数などをもとに線引きをおこない、藤沢市・茅ケ崎市・平塚市などを含む7市4郡11町を(藤沢市・茅ケ崎市・平塚市・伊勢原市・秦野市・小田原市・南足柄市・高座郡(寒川町)・中郡(大磯町・二宮町)・足柄上郡(山北町・松田町・大井町・中井町・開成町)・足柄下郡(箱根町・湯河原町・真鶴町)の区域として決定しました。鎌倉・逗子・葉山は横浜ナンバーのままになっています
 ここで気になりますのは湘南ナンバー対象区域なるものは今までの「湘南」イメージのように単に感覚的な領域の存在ではなくなり、明らかに行政区域として確定されることになることです。「湘南ナンバー」の車でカッコよく走りたい……という人々の当初の思いにもかかわらず、これを転機として「湘南」の持つ意味もイメージも今後大きく変わってくるのではないかと予想されます。現に「湘南県西」として
小田原市・南足柄市方面を呼称している団体があります。
「湘南の誕生」再生される地域イメージより
 『この湘南ブランド開発や湘南ナンバー創設という、湘南の地域イメージを利用した神奈川県の一連の事業は、県だけではなく、県下の地方自治体、地元企業、地元住民、さらには国までも巻き込んだことによって、「湘南」というものが、限定された一部の地域や一部の人々の間の流行に留まらず、社会現象にまでなっていったのである。21世紀を迎えた今現在、湘南はライフスタイルという、また新たな面から注目を浴び始めている。湘南という場所で生活すること、そこで営まれる生活のスタイルが、「ナウい」時代に突入したのである。こうした動きは、独り歩きしていく湘南のイメージと、現実の場所としての湘南があわさった形であるともいえよう。
 以上のように、これまで語り継がれてきた湘南をめぐるイメージは、時にはさまざまなところで利用され、そして、変化をとげてきた。おそらく今後もこの動きは止まることなく、「湘南」の地域イメージは、常に再生成され続け、新たなイメージが作られ続けていくのだろう。』
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