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曽 我 物 語
曽 我 兄 弟 の 仇 討 物 語
曽我物語の発端 > 曽我兄弟の仇討ち > 大磯の虎・曽我物語の地理
 曽我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年5月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。
しかし このあだ討ちは、作者不詳で、多くの異本があるが、中でも真名本曽我物語が最も古く良く取り上げられている。
 大磯の虎が登場する曽我物語は,平家物語に影響を受けて作られた作品で,作者は知られていないが、箱根権現の僧ではなかったかと言われいる。

 富士の巻狩りの際に起きたこの事件について公式に書かれた文書は『吾妻鏡』以外にない、また『吾妻鏡』に記載されたのも事件後100年近く経ってからといわれているので直近の記録ではなく、真名本曽我物語の記述に似通った所があるとされている。
 しかし『吾妻鏡』に記載されていることから、全くの作り話でもない。この項の趣旨とは方向が違うが、鎌倉幕府は将軍の膝元で起きた衝撃的なこの事件を意図的に隠そうとした痕跡のあることが分かり、現在様々な憶測を呼んでいる。

 建久4年(1193年)ごろ、頼朝の周辺や鎌倉付近では、次々と事件が起こっている。まず富士の裾野で催された大がかりな巻狩りの際、曽我兄弟が父の敵の工藤祐経を討ち取った。曽我の敵討ちとして有名だが、実は殺された工藤祐経は頼朝の寵臣(ちょうしん)であり、その人を討つということは、頼朝を中心とする東国の武家秩序に対する反逆であった。

 反頼朝・反祐経勢力が曽我兄弟の仇討ちを利用して頼朝・祐経の殺害を図ったという説も登場する。仇討ちのあと、頼朝の弟、範頼が謀叛の嫌疑をかけられて伊豆に流され、古くから頼朝に仕えていた大庭景義、岡崎義実が出家します。出家とは失脚を意味する場合もありました。北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした、仇討ち後の一連のできごとが頼朝・祐経暗殺計画説の根拠になっています。

 隠されていた史実を物語として世に広めたのは、物語にも登場する虎御前こと虎女だという。物語は彼女から口承に口承を重ねて徐々に広まり、南北朝時代から室町・戦国時代を通じて語り継がれた。曽我兄弟や虎女に関する史跡や伝承は、北は福島から南は鹿児島まで広い範囲に広がるが、そこからはこの物語が語り継ぎで広まっていった様子を検証することができる。口承は、主に巫女や瞽女などの女語りで行われたという。やがて能や人形浄瑠璃として上演されるようになり、これが江戸時代になると歌舞伎化されて「曽我物」の演目として定着した。特に延宝4年正月(1676年2月)に初代市川團十郎が『寿曽我対面』を初演して、ここで演じた曽我五郎が大当りした後は、この演目が正月興行には欠かせない出し物となった。
『曽我物語』は江戸時代に忠臣蔵が登場するまでは、日本人が語りつぐべき仇討ちの美談として能の題材となった。 
歌川広重 曽我物語図絵 大錦絵 
 工藤祐経は、兄弟の祖父伊東祐親と伊豆久須美荘の所領争いを遺恨に思い、従者に狩猟中の彼を遠方より弓で射させた。放たれた弓の一矢が伊東祐親(すけちか)をかすめると、彼の脇に立っていた男伊東祐親の息子河津三郎祐泰(かわずさぶろうすけやす)に誤って命中しました。射殺されたのは、曽我兄弟の父祐泰だった  建久4年5月28日 曽我兄弟は、祐経の臥床に討ち入り、積年の思いを遂げた。祐経の手が刀に届こうとした時、十郎は祐経の左肩から右わきの下にかけて切りつけた。十郎も祐経の腰に刃(やいば)を入れ、とどめを刺した。兄弟は勝利の雄叫び(おたけび)をあげた。
十郎は仁田四郎忠常と渡り合ったが、忠常によって殺され、22才の命を断たれた。  五郎は、女装して近づいた小舎人五郎丸によって捕らえられた。五郎は恐れ気もなく、工藤祐経の命(めい)を受け郎党に、父が射殺されたことを将軍に告げた。自らの18年に及ぶ艱難辛苦の日々についても語った。しかし、頼朝は断首を申し渡した。
●『曽我兄弟の仇討ち』
 12世紀、平安末期の頃、東国では、地方豪族が土地を領有していた。自らの領地拡大に懸命な豪族も多く、いざこざ争いが絶えなかった。
 伊豆地方では、工藤祐経(すけつね)と伊東祐親(すけちか)両家の領土問題も長年にわたっていた。
 曽我兄弟のお母さん、満江(まんこう)御前(満行とも。なお吾妻鏡にも曽我物語にも名は表記されていない)が後妻に嫁いだ先が曽我太郎なので、兄弟は曽我を名乗るが、実際は伊東一族の直系であった。
 工藤家のもめごとの発端だが、ひいじいさんの工藤祐隆(すけつね)が第二夫人の連れてきた若い娘と不倫して、産まれた子供に主家を相続させたことから問題が始まる。
 連れ子の子が本家を相続し工藤祐継となり、第一夫人から産まれた次男は河津祐親となり、傍系となってしまう。
 それを妬んだ彼は,巧みに所領を奪い伊東次郎祐親と名乗るが、伊豆一円で最大の豪族に勢力を拡大していった。
 源頼朝が伊豆の流人であった時、始めに頼ったのがこの伊東祐親であった。
 この家の九郎の次の子として元服したのが兄の十郎祐成(幼名,一萬丸), 後に出家寸前に箱根山から脱出して北条家に駆け込み、北条時政の五男格として元服したのが弟の五郎時致(幼名,箱王丸)であった。
 そして、ひいじいさんからみて孫になる、工藤祐経(すけつね)が兄弟の親の敵になる。
どうして敵になったかと言えば、曽我兄弟のおじいさん伊東祐親(すけちか)が、異母兄の工藤(父)が、連れ子系なのに伊東の所領を相続してしまったのを妬み、箱根権現に頼んで呪い殺し、所領を乗っ取り、伊東と名乗って居座ることから始まる。
 曽我五郎・十郎の父河津三郎祐泰(かわずさぶろうすけやす)が工藤祐経の従者によって暗殺されたのは、安元2年(1176)10月、伊豆奥野で行われた狩の帰途であった。暗殺の背景には、河津三郎祐泰(すけやす)の父伊東祐親(すけちか)と工藤祐経(すけつね)との間に伊豆久須美荘をめぐる所領争いがあったという。
工藤(子)は伊東おじさんに育てられ、その娘と結婚までするが、長じてから、乗っ取りを知って、領奪還の執念に燃える。
 こんな複雑な家系の地方豪族の家に,源頼朝がからんでくる。
 伊東祐親(すけちか)は平清盛の信頼が厚く、伊豆に流されていた源頼朝の監視役を任されていました。
 頼朝は最初、伊東祐親の三女八重姫に通い、可愛い男の子、千鶴丸が産まれるが、平家の怒りを恐れる親の伊東祐親が、三才の孫を発見し殺してしまう。
 その後,頼朝は命を狙われ、逃げ込んで頼った北条時政の長女政子に通じ、また女の子が産まれるが、こちらの物語は見て見ぬふりをします。
この行動が、将来伊東、北条の家系を天地ほど開いた運命へと運んでいく。
 そしてついに伊東おじさん一族を狙い、郎党に狩猟中の彼を遠方より弓で射させた。放たれた弓の一矢が伊東祐親(すけちか)をかすめると、彼の脇に立っていた男に誤って命中しました。射殺されたのは伊東祐親の息子河津三郎祐泰(かわずさぶろうすけやす)であった。
 刺客を放ち、その嫡男で従兄の河津三郎祐泰(曽我兄弟の父)を殺してしまうのだ。この時一萬丸(兄十郎)は5歳、箱王丸(筥王丸)(弟五郎)は3歳だった。
 悲報は、祐泰の妻、満江(まんこう)御前と二人の息子、一萬丸と箱王丸(筥王丸)に伝わり、暫くして亡骸との対面となった。
 満江(まんこう)御前は泣き崩れ、「お父さんは祐経(すけつね)に殺されたのですよ。お前たちにお父さんの仇を取ってもらいたいのです。」一萬丸(兄十郎)は、「いつか、必ず、お父さんの仇を取ります。」と、心に誓うのだった。
 夫祐泰の横死後、兄弟の母、満江(まんこう)御前は、舅の祐親(すけちか)にすすめられて、相模国曽我庄(小田原市)の曽我祐信(すけのぶ)と再婚する。一萬丸と箱王丸は曽我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。
 やがて、治承4年(1180年)の頼朝の挙兵後に、平家方についた伊東おじいさんは富士川の戦いで捕らえられ、娘婿の三浦義澄が頼朝への助命嘆願により赦されますが、過去の千鶴丸への仕打ちにより恥じ入り、治承6年に自害しました。幼い兄弟も由比ガ浜で打ち首にされかかるが、畠山重忠らの嘆願で救われる。兄弟は苦難に耐え成人する。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣(ちょうしん)となった。

 伊東祐親(すけちか)の孫である曽我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曽我十郎祐成と名乗った。
 弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。 兄弟はここで成育するのだが、五郎は一時、箱根権現に稚児として預けられた。
 曽我に再嫁してからの兄弟の母は、身辺の平穏を望み、わが子に仇討ちの志を捨てさせようとするが、兄十郎は、決してお父さんの仇を忘れることはなかった。
 それ以来、祐経(すけつね)を仇と付けねらい、苦しい生活に耐えた。しかし、その機会は二人になかなか巡って来なかった。
 文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、五郎時致(ときむね)は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。
 箱王丸(五郎時致(ときむね))は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が伊東祐親(すけちか)の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曽我五郎時致(そがごろうときむね)となった。北条時政は曽我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、兄弟の父への思慕と、仇祐経に対する憎しみは強く、兄弟は仇討ちの初志を貫ことする。
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