湘南の古都鎌倉
2024 年 11 月
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東海道五十三次の概略
● 湘南の歴史的所見
 東海道五十三次はお江戸日本橋から始まり京都三条までいうが、湘南には、藤沢宿、平塚宿、大磯宿と3宿場があり、そして、間の宿として茅ヶ崎、二宮があります。日本に数ある街道のなかで、東海道ほど有名なものはありません。
 その東海道の政治・経済・交通上に占める役割と位置とが定まったのは、天正18年(1590)の小田原落城に伴い、徳川家康が正式に江戸に入った、同年8月1日のこと。そして慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの勝利により、事実上の兵馬の権を握った。家康が始めたのが、従来の藩中心の交通政策を、江戸を中心とする全国的規模のものへの改変でした。そのためまず同6年正月、代官頭彦坂元正等に命じて東海道を巡視させ、このとき初めて江戸を起点とする東海道を定めたのでした。
 そして翌慶長7年には、中山道を開くなど、各街道を次々に開設しました。元和元年(1615)の大阪城陥落により、徳川家康による江戸幕府の成立は、このような江戸と上方とを結ぶ東海道交通の重要性を決定的なものとした。 旅客の往来、物資の輸送、情報の伝達などをはじめとして、さまざまな面で東海道が果たした役割は大きかった。
 街道の整備には、伝馬制の制定のほか1里塚(4キロメートル)が設けられ、並木が植えられ交通の利便が計られた。1里塚は日本橋を起点に一里毎に設けられた塚ですが、道標としての役割も果たしていました。また、並木は旅人にとって陽光から身を守るものであり、宿と宿の間の町屋が途切れる街道の道路界の代わりとなるものでした。宿の施設には、伝馬を掌る問屋が設けられ、伝馬に掛かるー切の事務を職掌します。また、宿泊施設には本陣・脇本陣・旅籠屋があり、本陣には原則として一般旅人の宿泊は禁止されました。人為的に街道には軍事的な目的から関所が設置され、大河川には架橋しないという障害物を設けはしましたが、箱根山中の石畳、急坂の土留木によ施設、宿と宿の間の立場の設置など、江戸時代の街道は、交通組織や施設が十分に整備された時代ということができます。その街道の中心が東海道でした。江戸時代の宿場は、大きく分けてふたつの異なる役割をもっていました。
 一つは、宿駅制度のもとで幕府の公用役人や参勤交代の大名に対し人馬継立や宿舎提供の御用をつとめる、いわば公(おおやけ)の顔、表の顔でした。 人馬継立は、一宿ごとに荷物や人を積みかえるリレー式の輸送で、朱印手形による無賃人馬のほか、足らない分は有料で人足や馬を利用することもできた。宿の人馬を使いきったときは、助郷村から応援を求めました。宿人馬・助郷人馬や荷駄の差配は問屋が行なっていました。 公用役人や大名の宿泊施設としては、本陣・脇本陣が置かれていました。
 宿駅が負担した御用は幕府役人の通行や大名の参勤だけではなかった。将軍上洛や朝鮮使節・琉球使節など国家的な行事として行なわれた大通行や天草島原の乱の鎮圧軍の派遣の際には、沿道の村々あげて膨大な数の人馬を提供させられた。五街道をはじめとする街道の宿場は、こうして近世国家を交通面で支える大きな役割を担わされたのでした。
 宿場のもうひとつの顔は、庶民が集う場としての世界でした。旅龍に木賃宿(きちんやど)、旅人に近在の村人、飯盛女に駄賃稼ぎの馬方−宿本来の自由さと猥雑さにあふれた、いわば大衆の顔である。
 ここでは宿場は人々の情報交換の場であり、文化の流通路であり、周辺村落の産物の販売所であり、また近在への糞尿肥料の供給地でもありました。外の世界に通じた小都市として、宿場は地域の経済と文化の中心の役割をも担う存在になっていくのでした。
 それは明治以降の近代になっても、変わらないどころか、ますますその重要性を高めていった。首都東京の関東圏と大阪を中心とする関西圏とを結んで国道一号線が走り、戦後の高速道路網も、まずは名神・東名から始まった。これは東海道線や新幹線など鉄道も同様で、両者相まって東西交通の大動脈として、近代以降の日本の発展を支えてきました。
 この湘南は、この東海道筋にあり、宿場としては、藤沢宿、平塚宿、大磯宿が当り、間の宿として茅ヶ崎、二宮がある、その周辺の歴史的所見を探ってみることにしよう。
街道と宿場の諸施設
宿場町
 街道の拠点となるところが宿場町である。旅する人々はここで歩みを留め、さまざまな人生模様を展開する。
宿場町の最大の役割は物資などの輸送である。物資輸送の範囲は原則として隣接する宿場町までである。隣接する宿場を越えての輸送は禁止されていた。しかし箱根宿などは山上の宿であったため、人足は幕府の書状や物資のみを運んだ。その他の人足の運ぶ物資は小田原・三島の人足が箱根を通過して運んだ。しかし宿ごとに継ぎ替えを行うのは面倒であったため、近世後期には付け通しを行う場合もあった。 現在、宿場町といえば大半の人々は旅人が一夜の宿をとったところとして意識する。宿場町にはさまざまな負担が掛かるが、その代償として公用以外の貨客輸送の独占が認められたが、旅人を宿泊させる権利も認められていた。このため旅人は宿場以外での宿泊は禁止されたし、間の村も宿泊施設を置くことはできなかった。
 東海道は江戸から京都までの間に五十三の宿場が設けられていた。五十三回の継(次)ぎ替えをすることになる。そのため俗に「五十三次」と呼ばれるようになった。
間の宿
 東海道の宿と宿の間にある村を、「間の村」と呼んでいました。所々の「間の村」の中には「立場」と呼ばれる馬を継ぎ立てたり、荷物を運ぶ人足や駕籠かきなどが休息する場所があり、この立場の中でも、眺望が利く場所、街道の重要な分岐点、橋のない大きな川に接するところなどでは、旅人の休憩に供される茶屋のあるものもあって、これらの茶屋を「立場茶屋」と呼んでいました。このような町場的要素を持つ間の村を「間の宿」と呼び、神奈川では茅ケ崎の南湖と二宮の梅沢がありました。
本陣と脇本陣
 近世の宿場は、伝馬により人や荷物の輸送をするだけでなく、旅行者の休息の場でもあった。旅人たちは本陣や脇本陣・旅龍屋・茶屋などで、旅の疲れを癒したのである。
 本陣は幕府により本陣職を与えられた者が仕切っており、民営の旅龍屋とは異なっていた。玄関・書院・立派な門構えのある建物で、公家や大名・旗本など最も権威のあるものの宿泊施設であった。脇本陣は、本陣よりは格が一段下がるものであったが、格式と対面を重んじる大名の宿泊が一宿に重なり、本陣が満員のとき大名などが利用した。時として一般旅行者の宿泊することもあるが、頻繁に宿泊させるというわけにはいかなかったようで、経営的には苦しかったようである。一般に本陣と脇本陣は宿の中央に置かれた。
旅籠(はたご)
 本陣と脇本陣のほか一般の武士や庶民が宿泊する施設に、食事を提供する旅籠屋と、旅人が食料を持参し自炊して泊まる木賃宿(きちんやど)があった。また旅人が昼食や茶・菓子などを取りながら休憩する茶屋もあった。旅籠屋のなかには、飯盛女を置く旅籠屋があり、そのような旅籠屋を飯盛旅籠、飯盛女を置かない旅籠屋を平旅籠屋といった。飯盛女とは、給仕をする女という意味であるが、売春を前提に旅籠屋に抱えられた女たちであった。幕府は、幕府公認の遊廓(江戸の吉原・京都の島原)以外に遊女を置くことを禁じたが、飯盛女は遊女と区別されその存在は黙認された。
旅籠と木賃宿(きちんやど)
 一般の旅人が宿泊するのが旅籠屋である。旅籠屋には飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠とがあり、その規模に応じて大・中・小に分けられている。旅籠の宿泊費は1800年代の前半で150文前後、その後は200文前後になったようである。旅籠は夕食・朝食を出したが、旅籠屋によっては昼食の弁当を出している。
 安価な宿泊施設として木賃宿(きちんやど)がある。木賃宿は宿泊者がみずから食事をつくるもので、宿泊者はここで薪を購入し、その代金を支払うので木賃宿と弥した。木賃形式が宿泊の本来の姿であったが、次第に安宿の代名詞になってしまっている。近世後期の旅日記を見ると、木賃宿に泊まった場合、米の値段を記入していることが多い。木賃宿で米も購入しているのだろう。
問屋場(といやば)
 慶長6年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度か布かれた。こうした人馬の組立や御用旅宿の手配をはじめとする宿駅の業務を取り扱う場所を問屋場といいました。
ここで働く人々は宿場によって異なるが、問屋場には、問場主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が十余人以上勤務していた。
 問屋は宿場の最高責任者で、その下に年寄がおり、問付以下の者たちで宿場に雇われていたが、なかでも帳付の仕事は大変だった。
助郷(すけごう)
 伝馬制度は、公用で必要とする人馬(100人・100匹)を各宿が常備し、それを宿継ぎに送る制度でした。しかし、常備する人馬だけでは継ぎ送りに支障をきたす場合、宿に隣接する村々へ補助的に人馬を提供させる制度があります。これを助郷といい、人馬の提供を指定された村も助郷(村)といいます。
江戸見附と京見附(上方見附)
 見附とは本来城下に入る「城門」見張りの門のことで、城下に入る人々を監視する見張り場の役目でした。江戸時代の宿場の出入リロにも見附を置き、宿場を守る防御施設として造られた。
 街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1・6メートル程でその上に竹矢来が組まれていた。見附は必ずしも宿境(宿境は榜示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼んだいました。
立場(茶屋)
 宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場(街道の休憩場)という施設ができてきました。立場には飲食ができる茶屋がありました。
藤沢宿を出て平塚宿までの間には、四ツ谷・菱沼(牡丹餅)・南湖三つの立場がありました。馬を継ぎ立てたり、荷物を運ぶ人足や駕籠かきなどが休息する場所があり、この立場の中でも、眺望が利く場所、街道の重要な分岐点、橋のない大きな川に接するところなどでは、旅人の休憩に供される茶屋のあるものもあって、これらの茶屋を「立場茶屋」と呼んでいました。
 立場茶屋は街道両側の一画に集中していましたが、江戸時代も中頃になると、所によっては次第に町場化してくるようになり、茶屋本陣や旅龍茶屋や商店が軒を連ね、旅人の宿泊にも応じる茶屋町を形成、更には、「かごや」・「荷宿」・「伝馬」などの屋号を持つ家が並ぶようになりました。
高札場(こうさつば)
 高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。
一里塚(いちりづか)
 交通路の施設といえば、誰もが目にするといってよいほどのものが一里塚と並木である。
一里塚の始まりについては諸説あるが、江戸幕府が一里塚の構築を命じたのは慶長9年(1604)のことといわれています。一里塚は日本橋を起点に一里(約4キロメートル)ごとに道の両側に塚を築き、塚上に樹木を植えたもので旅行者にとっては道標ともなった。その木陰は、旅人たちの格好の休憩所でした。
松並木
 江戸幕府もまた街道に並木を植えているが、並木は街道を歩く人の道しるべ、強い夏の日差しから身を守る日除け、強い風雨から身を守る風除け、火災から人家を守る火防、路標、雪で道が定かでなくても、並木に沿って歩けば迷うことはない、道路の保全など数多くの役割を果たしてきました。そのため、その保護には並々ならぬ苦心が払われていた。
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