湘南の古都鎌倉
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平塚宿
 平塚宿は、県内の宿場でも珍しく東西に真直ぐに伸びる東海道に沿って町屋が続いており、そのために江戸から来る旅人が平塚宿に入ると、正面に高麗山が見え、次第に、それが目の前に追ってくるようになります。
 旅人の宿泊の少なかった平塚では、日暮れにはまだ間があって通り過ぎようとするのを、「大磯へは、あの高麗山を越えなければ行けません。これから越えるのは大変です。」と言葉巧みに無理やり宿泊させたという話が残っています。
 平塚の名は、「吾妻鏡」に「範隆寺平塚」「黒部宮平塚」とあるのを初見とする。宿の形成は鎌倉期にさかのぼり、正和5年(1316)ごろ、鎌倉に滞在していた益性法親王の上洛の際の書状に「平塚宿」と見えることから、そのころには宿としての機能を整えていたことがうかがえる。
 かつて平塚新宿の西端から平塚宿との間には、長さ2町32間(約270メートル)ほどの松並木があり、これを過ぎて平塚宿の宿内に入った。現在、平塚市民センターのところに江戸方見付跡の碑が立っている。東海道の左右には民家が並び、その長さは9町5間(約1q)、道幅4間1尺(約7m)から6間(約11m)であった。宿内は江戸方から18軒町・24軒町・東仲町・西仲町・柳町と続いていた。
 問屋場は、一つは24軒町と東仲町の間にあり東組問屋と呼び、一つは西仲町にあり西組問屋と呼んだ街道北側24軒町に脇本陣安兵衛、同じく西仲町に本陣加藤七郎兵衛があった。柳町と西仲町との間、街道北側に要法寺がある。
 東海道の宿駅には、慶長6年(1601)に指定される。慶安4年(1651)に平塚新宿を加宿に編入。
明治四年(1871)、廃藩置県により平塚宿および加宿平塚新宿村は足柄県に編入。同5年の大区小区制施行により、平塚宿は2大区10小区に属した。
 同9年(1867)、神奈川県に編入。同22年(1889)の町村制施行により、平塚町となる。昭和4年(1929)、須馬村と合併。同7年(1932)、市制を施行する。同29年(1954)、旭村を平塚市に編入。同31年(1956)、近隣の大野町、神田村、城島村、岡崎村、土沢村、金田村を平塚市に編入。同32年(1957)、金目村を平塚市に編入し、現在の市域が確定した。
新東海道(国道1号線)(西組問屋場跡付近からわかれている) 旧東海道
安藤広重の「東海道五十三次」の平塚宿
平塚の宿・史跡絵地図
平塚宿・江戸見附市民センター東横の位置 江戸見附跡
 平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は榜示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
 平塚宿の見附はニ箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1・5キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
  一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
 平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メートル、幅約一・五メートル、高さ約一・六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。
脇本陣跡碑
 江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが、脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅龍としての営業も可能でした。
 平塚宿の脇本陣は、享和年間(一ハ〇一〜○三)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間廷絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(一八三〇〜四四)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
高札場の跡碑
 高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。
 平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約五メート)、横一間(約一・八メートル)、高さ一丈一尺(約三メートル)でした。平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
東組問屋場の跡碑
 平塚宿は、東海道五十三次の宿場として慶長六年(一六〇一)に成立しました。 宿場は、旅人が休憩するための茶屋や宿泊するための旅籠といった施設が整っているばかりではなく、諸荷物の擁立(人夫や馬を取替える)といったことも重要な役割でした。
 こうした人馬の組立や御用旅宿の手配をはじめとする宿駅の業務を取り扱う場所を問屋場といいました。平塚宿では、問屋場が二ヵ所あり、西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といいました。
本陣旧蹟碑
西組問屋場の跡碑
問屋場跡 
 慶長六年(一六〇一)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度か布かれた。この伝馬の継立する所を問屋場といい、問屋場には、問場主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が十余人以上勤務していた。
 平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが寛永三年(一六三五)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出で、慶安四年(一六五一)その目的を達した。八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平家宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は十日目交替で執務したという。
京方見附
 東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。
 宿場の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりました。先人たちんほ言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったものと思われれます。初代広重によって描かれた東海道五十三平塚宿の錦絵もの眺めのもの思われ、変わらぬ高麗山の姿に往時の風情が偲ばれます。
平成の一里塚
 江戸時代の平塚宿の一里塚は、現在のホテルサンライフガーデンの前あたりにありました。明治以降、道路の拡張などによって一里塚は取除かれ、往時をしのばせる痕跡は残されていません。榎木町という町名は、この一里塚上にあった榎樹に由来しています。江戸時代ヽ旅人たちの道しるべどなった 一里塚。街道に一里(四キロメートル)ごとに築かれた塚には、大木が植えられ、その木陰は、旅人たちの格好の休憩場所になっていました。そんな「一里塚」を現代に蘇らせようとつくられたのが「平成の一里塚」です。東海道の新しい道むるべとして、また、歩行者の休憩場所として、この地に整備されました。広重の絵にも描かれた、高麗山をバックにした東海道と花水川。「平成の一里塚」で、東海道の歴史・文化に思いをはせてみてください。
春日神社
春日神社本殿
 縁起によれば、建久二年(一一九一)、源頼朝が馬人川の橋供養の祈願をし、完成の後創建した神社と伝えられ、その当時は、黒部宮といって、今のこの地よりずっと南にありましたが、その後、津波で社殿が流されたため、この地に移ってきたといいます。祭神は、天児屋根命・武甕槌神・経津主命など四往で、平塚本宿の鎮守です。
平塚の碑
 要法寺の西隣に平成12年(2000)に整備された「平塚の塚緑地」があります。面積1,247u、「平塚の碑」を中心に右手に塚を配し、あずまやを設け、しだれ桜、つつじ等を植栽し市民に開放されています。「平塚の碑」は大正9年(1920)、平塚町長加藤銀蔵の努力により建立されました。題額は徳川頼倫、撰文は神奈川県知事有吉忠一によるものです。碑には、平塚の地名の起こりや、平塚発展の歴史が述べられています。
 地名の起こりは、桓武天皇の孫の高見王が上総介として任地に赴く途中、その娘の真砂子が病にかかり、天安元年(八五七)二月二十五日、この地で亡くなったといいます。その時、土地の人がその亡骸を手厚く葬って、ここに塚を築いたとされています。この塚は長い年月の間に次第に平らになり、人々はこれを平ら塚、そして「平塚」と呼ぶようになったといいます。いわば、「平塚市」の地名の起こりともいえます。
要法寺
 松雲山要法寺といい、日蓮宗の寺院です。鎌倉幕府の執権北条泰時の次男泰知は、平塚に住んで平塚左衛門尉泰知といいました。弘安5年(1282)、病身を武州の池上邸で養うために身延山を出発した日蓮聖人は9月18日に平塚に到着し泰知邸に一泊されました。この宗祖の霊跡に建立されたのが要法寺です。
 境内には、宗派の鎮守神をまつる七面社や、日蓮に帰依し要法寺の開基となった泰知入道松雲院日慈上人の供養塔などがあります。
また、この寺には歌舞伎「加賀見山旧錦絵」のモデルになったお初の墓がある。姫君に仕える中老尾上を妬んだ局の岩藤が彼女を陥れ、自害に追い込んだ。そこで尾上の召使いのお初が、主君の濡れ衣を晴らし、岩藤を斬って仇を討つという話である。このお初は、平塚の住人・松田久兵衛の娘だとされている。 
お菊の墓
 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことあって菊女を斬り殺したという。
一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見染めたが、菊女がいうことを聞かないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手討ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
 この事件は元文五年(一七四〇)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材となったという。また他の話によると菊女はきりょうが良く小町と呼ぱれていたが、二四才のとき江戸で殺されたといわれている。死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木 を植えて墓標とした。
  昭和二七年秋ヽ戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
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