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湘南物語は下記の文献を参考にさせて頂いております。ここで深く御礼申し上げます。
湘南物語 参考文献
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「間の宿」二宮・梅沢
 街道の宿と宿の間にある村を「間の村」と呼んでいましたが、そこにあった立場茶屋が次第に町場化して、茶屋本陣を中心とした茶屋町を形成するようになると、そこを「間の宿」と呼ぶようになりました。
 神奈川県における「間の宿」は、茅ヶ崎・南湖と二宮・梅沢のニカ所です。梅沢の立場は、山西村(二宮町)の西外れにあって、俗に茶屋町と呼ばれ「松屋」を名乗る茶屋本陣を中心に茶店や商家が並び、さながら宿場の体をなしていました。
 間の宿が繁盛した理由の一つは、利用代金が本宿に比べて格段に割安だったからで、梅沢の場合、小田原との間に酒匂川があり増水時には川留となり、その間、経費のかかることを恐れた旅人は割安の間の宿を利用したと考えられます。
二宮の一里塚
 慶長9年(1604)江戸幕府徳川家康は、息子秀忠に命じ東海道、東山道、北陸道の三街道に、江戸日本橋を起点として一里(約四キロメートル)ごとに塚を築かせ、交通の円滑化を図りました。
 一里塚は、大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠などの運賃の目安であると同時に、塚の上にある大木は、夏は木陰をつくり、冬は寒風を防いで、格好の休憩所にもなりました。
 ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から18番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は、高さ一丈二尺(約3・6メートル)上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は、高さ一丈(約3・3メートル)、上には榎(えのき)が植えられていました。
周辺にはヽ旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。
二宮・梅沢松屋本陣跡
 間の宿梅沢の立場は、二宮村に続く山西村の西外れにあって、俗に茶屋町と呼ばれその中心部に松屋本陣がありました。 
 江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸〜上方間を往来する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。 このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿〜小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間の宿(あいのしゆく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。
 その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。
 松屋が茶屋本陣として本格的に機能し出したのは、宝永期(1704〜1711)になってからで、その規模は本宿の本陣には劣るとはいうものの、天保12年(1841)の松屋は間口7間半(13・7m)・奥行15間1尺(27・5m)余、畳数104畳の広さを待っていました。
 文久3年(1863)の将軍家茂の上洛に際しては御小休所に指定され、上洛御用の旗を掲げて諸大名の接待にあたりました。 
知足寺
 塩海出花月院知足寺という浄土宗のお寺で、本尊は恵心僧都の作と伝えられる阿弥陀如来像です。
 鎌倉時代初期、源頼朝の御家人でこの地の領主であった二宮弥太郎朝定の内室花月法尼を開基としています。元は河津三郎祐泰の娘で曽我兄弟の姉であった彼女は二宮家に嫁ぎ、後に髪を落として花月尼と称して、亡夫と曽我兄弟の冥福を祈ってその舎屋を堂宇としたものといいます。境内の西丘には朝定夫妻と曽我兄弟の墓と伝えられる四基の墓があります。
二宮・吾妻神社
 本殿は東海道線を越えた先の吾妻山上にあり、祭神は弟橘媛命を主神として、日本武尊を配祀してあります。 創建は第十二代景行天皇の時代と伝えられ、皇子日本武尊が東征したとき、妃の弟橘媛命が相州走水の海に身を投じて風浪を鎮めたといいます。後に袖ケ浦の海辺に漂着した櫛を淘綾郡吾妻山上に埋め、御陵を造った跡に祠を設けて祭祀したのが始まりといわれています。
 源頼朝夫人政子の崇敬が篤く、吾妻山全部と山麓の田畑などを寄進したと伝えられています。又、小田原北条氏の信奉も深く、五代氏直は戦勝を祈願して合戦に勝利を得たので、本社を修造して神宝を寄進したといいます。 現在は、「縁結びの神」として、例年一月の第三日曜日には「縁結祭」と呼ばれる大祭が行われています。
等覚院(藤巻寺)
 国道1号線の吾妻神社入口バス停の脇には、梅沢の旧東海道へ入る道があります。旧東海道は今でもわずかに昔のたたずまいを残しています。その道を西へ向かって200メートルほど進むと、右手に等覚院があります。 江戸時代、等覚院は藤の花の名所として知られています。元和9(1623)年に三代将軍の徳川家光公御上洛の(京都へ参る)折、わざわざ駕籠を止めて藤の花をご覧になりました。家光はほうびとして葵の紋が入った茶碗を与えたということです。
 また寛文のころ(1661〜1673年)仁和寺宮が関東に下向されたときには、等覚院の淡い紫と白色の藤の花をご覧になり、その見事さに感動して「藤巻寺」の別号を与えたといいます。「藤巻」の名のとおり、太い幹は2メートルほど上の藤棚へ向かって、うねるように伸びています。 現在は推定樹齢400年の古木となりましたが、美しい花を咲かせています。
ここでいう湘南は、二宮で終わりです。
 
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