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最終更新日 2019:04:01    湘南の天気予報   只今の時間    2019年04月20日(土)13時19分

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藤沢の宿
 藤沢宿は、慶長6年(1601)、東海道に宿駅伝馬制度が制定されると、藤沢は神奈川・保土ヶ谷・平塚・大磯・小田原とともに、最初に宿駅に指定された。
 その後、江戸時代中頃以降は、「大山道」や「江の島道」の分岐点として、「大山詣り」や「江の島詣で」の旅人の拠点となり、さらに一層の賑わいをみせることになった。
 江戸から6番目の宿場藤沢宿は、日本橋から12里半(49・1q)、戸塚宿からは2里(7・9q)、次の平塚宿へは3里半(13・7q)京へは113里8丁の距離にありました。遊行寺東門横にあった江戸方見付から台町の上方見付までの宿内の家並みは、長さ12町17間(1・3km)、江戸方より大鋸町・大久保町・城戸町の三町で、構成されていた。
 天保14年(1843)の記録で4、本陣、脇本陣はそれぞれ1軒、旅龍屋は45軒あった。
遊行寺の門前町でもあり、1と6の日には市が開かれていた。東海道から入った右側、現在の藤沢公民館(藤沢一丁目)から日蓮宗妙善寺の辺りにかけて江戸時代の初め、御殿があった。また、左側の松山がある砂丘部には現在は廃寺となった常福寺や金剛院、慈眼寺があった。
 街道筋の南側に消防署本町出張所があるが、このあたりが宿場の中心だった問屋場跡だという。
安藤広重の「東海道五十三次」の藤沢宿
遊行寺橋と図の手前に大きな鳥居が描かれている、これは江ノ島弁天の一の鳥居である。
 現在の藤沢市の中心は、JR藤沢駅周辺になっているが、北口から、商店街の間を北に500メートルほど行くと、藤沢橋の交差点になる。そこが東海道(国道一号線)で、右方(戸塚方面)に遊行寺坂、またの名を道場坂ともいい、戸塚宿につながり、正面をさらに進むと、いまでも古い暖簾の商家が目につく。かつての藤沢宿の面影がかすかに残っているようだ、この辺りが藤沢宿である。
 東海道(国道一号線)を戸塚方面から来ると、藤沢バイパス出口の信号で、左折し国道一号線(バイパス)と分かれ、藤沢市域に入る。さらに進み遊行寺を右に見ながら遊行寺坂の長い坂を下り始める辺りの両側に一里塚があったが、現在はその位置を示す案内板があるのみである。
遊行寺坂にある一里塚案内板。
 かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約4km)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は何も残っていません。
 左図は往時の面影を伝える史料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右手に「一りつか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。
今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎の木かげて一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。

                      平成二十年(二〇〇八)三月
                                    藤沢市教育委員会  記
遊行寺坂、またの名を道場坂 遊行寺坂左側の諏訪神社
左側には諏訪神社がある。江戸時代は藤沢宿大久保町、大鋸町の鎮守社。遊行寺の鎮守でもあった。
藤沢橋
(正面、遊行寺坂(戸塚宿)右側藤沢駅、左側茅ヶ崎・平塚宿)
遊行寺橋
(正面、遊行寺)
 藤沢橋は江戸時代にはなく、江戸時代の東海道は手前を右折して。やや上流に架かる遊行寺橋をわたってから右折し、茅ヶ崎・平塚宿方面に向かっていたのである。 なお左折して行くと大鋸町のうち舟久保。江ノ島・鎌倉へ抜ける道であった。遊行寺へは藤沢橋の上流に架かる朱塗りの遊行寺橋を渡って黒門から入るのが参道だ。
遊行寺橋遊行寺・黒門大きな冠木門
黒門をくぐりすぐ左の貞松院墓地に板割朝太郎墓 板割朝太郎墓
 板割りの浅太郎は、伊勢崎市に近い下植木村の生まれで、本名は浅治郎といった。 天保十三年(一八四二)八月、忠治の開いた賭場に、八州回りの役人が踏み込んだが、忠治は事前にこれを察知して逃げた。浅治郎の伯父に勘助という者がいて、役人をしていた。そこで忠治は、「手前が勘助にタレ込んだのだろう」 と浅治郎を責めた。その場で浅治郎を叩き斬ろうとしたのを、日光の円蔵が、まあまあといって宥め、潔白の証に、勘助の首を持って来いということになった。浅治郎は泣く泣く勘助を斬った。そして残された甥の勘太郎を背負って赤城山にもどる。天保十三年(一八四二)、赤城の山から国定一家がちりぢりになって落ちのびたあと、浅治郎は手配の網の目をかいくぐって、渡世の足を洗うため長野県佐久市時宗の金台寺の住職列外和尚の弟子になり、出家して仏門に入り、名も列成和尚と改めた。
 後に遊行上人の手引きにより、この地に移り、遊行寺の堂司(堂守)を勤めた。 朝夕の鐘つき、札売り、参詣者への墓の接待、境内の清掃に精を出しながら、念仏三昧の日々を送って、自分が手を下した、中島勘助、勘太郎父子の菩提を弔った。その清心、改心が認められ当時この地にあった貞松院の住職になった。
 やがて明治十三年、遊行寺が、火事で焼けた折、六十才を過ぎた列成和尚は、勧道僧になり、各地を巡る浄財集めの旅に出た。その寄進によって、明治二十六年に遊行寺が再建されると、列成和尚は、佛思に報いた。しかし 明治二十六年十一月三十日 七十四歳でその生涯を閉じた。石碑には、法名は洞雲院弥阿列成和尚と刻まれている。
藤沢敵御方供養塔
この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永二十五年(一四一八)に造立ざれたものです。
 基礎石のよに角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。

南無阿弥陀佛
白應永廿三年十月六日兵乱至同
廿四年於在々所々敵御方為箭
刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土
故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也
応永廿五年十月六日

 応永二十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同二十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。

 この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢ハ世)太空上人・文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。 敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。
時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。
                  平成二十年(二〇〇八)二月                                  藤沢市教育委員会  記
時宗の宗祖・一遍上人像 遊行寺本堂
 遊行寺坂の途中に時宗の総本山遊行寺、正しくは藤沢山無量光院清浄光寺がある。この藤沢宿は「遊行寺」の門前町として発達してきた。時宗の宗祖・一遍上人(一二三九〜八九)は、伊予国の豪族河野家の出身である。十歳で父の命を受けて出家、その後、九州大宰府において法然(浄土宗開祖)の孫弟子の聖達に師事しました。
 一遍はやがて時宗を開き、諸国を遊行しながら庶民とともに念仏を唱え、ともに念仏踊りをして回った。念仏踊りというのは時宗独特の教化の方法で、いわば踊る宗教の元祖といったところだ。 正応二年(一二八九)に死去したが、その足跡は奥羽から九州にまで及んでいる。そうしたことから一遍は遊行上人と称され、その法灯を継いだ弟子たちも、遊行上人と呼ばれた。 
 四世遊行上人呑海が、正中二年(一三二五)に清浄光寺を建立すると、俗に遊行寺、あるいは藤沢道場と呼ばれ、所属寺院四百余を擁する時宗の総本山になった。
長生院 小栗判官と十人の従者の墓
小栗判官照手姫伝説(おぐりはんがんてるてひめ)とは
 遊行寺、右側の奥に長生院、小栗堂があって、裏手に小栗判官と照手姫、そして十人の従者の墓がある。小栗と照手姫の二人の話は、浄瑠璃の題材にもなってよく知られている。 
 応永30年(1423)、常陸小栗城主・小栗判官満重が、謀叛の疑いで鎌倉管領・足利持氏に城を追われ、落城し行方知れずとなった。満重はその子助重と十勇家臣と共に身をひそめていたが、あるとき、相模の相州藤沢の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で、「毒酒を呑ませて一度に殺して財宝を奪え」となり。そこで横山大膳は遊女を集めて酒宴を開いた。このとき照手という遊女が小栗に同情して、毒酒のことをそっと告げた。小栗は心得て、呑むふりをしていたが、従者たちはなにも知らずに呑んで酔い潰れた。家臣十名は毒殺された。小栗はそれとなく座を立ち、財宝を持って馬で遊行寺に逃れた。上人は小栗をかくまった。小栗は遠州に逃れた。家臣十名は哀れにも上野ケ原(藤沢市)に捨てられたが、幸にして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世(遊行十四代)他阿太堂上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。その後、幸運にも照手姫の助によってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗満重と助重は、熊野本宮湯ノ峰温泉(和歌山県牟婁郡本宮町}に浴して快復し、父満重の死(応永33年3月16日)後、10余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復しました。なお助重は、毒殺という非業の死をとけた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝謝恩の供養をもって父満重と家臣の墓石を、八徳池のほとりに営んだと伝えられております。横山一党をやぶり、相模に照手姫を探しにやって来て遠州に連れ帰ったという。小栗が死んで、遊行上人を頼って照手姫が尼になっり小栗と十人の霊を弔うため長生院尼となり余生を送った。
浄土真宗永勝寺 飯盛り女(遊女)の墓碑群
 現在ある寺院としては浄土宗常光寺(本町四丁目)、浄土真宗永勝寺があり、永勝寺(本町四丁目)には旅龍屋小松屋の墓域に宿場の飯盛り女(遊女)の墓碑群が残されている。
 宿場には、たいてい飯盛り女の投げ込み寺があって、遊女たちは、死ぬと無縁仏として葬られるのが普通だった。要するに牛馬なみの扱いだったのだ。飯盛女の墓はこの源蔵が建てたものです。三十九基の墓石には四十八体の法名が刻まれていて五体は男です。内三十八基が宝暦十一年(一七六一)から享和元年(一八〇一)まで、小松屋の墓域に建てられている。
 藤沢宿大鋸町では、飯盛女のいない宿場がさびれたため、万廷二年(一八六一)宿民のためとして一旅籍屋二名の飯盛女を置く許可を役人から得ています。
 飯盛女のいる旅籠は繁昌しました。藤沢宿には、旅籠が四十九軒あり、このうち飯盛女を抱えたのは二十七軒ありました。一軒にニ人ずつ置かれました。飯盛女は近くの農村や他国からも両親の借金の代償としてなかば売られて藤沢に来たものです。旅人の世話や食事の給仕だけでなく、男たちの相手にもなりました。  飯盛女として悲しい一生を終えたのです。このように供養された者は少なく、借金の形など苦界の中で身を沈めた者が多い中小松屋の温情がしのばれらる。
東海道「白旗神社」信号手前の交番横の道を入る。 義経の首洗いの井戸
 坂戸町(藤沢二丁目)を行き町田県道(現467号)(ハ王子街道、古くは滝山街道)を右に入るその先の「白旗神社」四つ角の手前右側(交番とマンションの間の道20メートル先)に、義経首洗い井戸跡があって、義経首塚、武蔵坊弁慶の碑、その他の家臣らの碑がある。平家討滅という大功をたてながらも、義経は兄頼朝と不和になり、奥州平泉に逃れ、藤原秀衡を頼った。しかし秀衡が死ぬと、その子秦衡は鎌倉の圧力に負けて、義経の館を襲ったのである。文治五年(一ー八九)六月のことだった。義経の首は、鎌倉に送られ腰越で首実検されたが、腰越の浜へ捨てられました。それが潮に乗て境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。首洗い井戸の先に「白旗神社」交差点があり、右折するとすぐ右手に白旗神社がある。横浜新道(藤沢バイパス)の手前である。白旗というからには源氏に関係がありそうだが、その通りで、この神社は義経の首を祀っている。石段を登って境内に入る。
白旗神社鳥居 白旗神社
 建久9年(1198)古くは相模國一之宮寒川神社の御分霊寒川比古命を勧請したのが始まりと伝えられています。。吾妻鏡によれば、奥州(岩手県)平泉で自害された義経・弁慶の首は、藤沢腰越の浜で和田義盛・梶原景時により首実検が行われた後、川を上りこの神社に辿り着いた。里人は義経を憐れみその首を近くの井戸で洗い清め当神社の御祭神とした。
 宝治3年(1249)義経が祭神に加えられた。それ以後、白旗明神・白旗神社と呼ばれるに至る。尚、弁慶の首は当社より南に八王子社として祀られた。
本殿南側には弁慶の力石があり、この石に触れると健康になり病気をしないといわれている。また、神社より南へ300メートルほどの所に義経の首を洗ったといわれる井戸がある。
二ツ家稲荷神社 庚申供養塔
藤沢市指定重要文化財
寛文十年(一六七〇)庚申供養塔
 庚申信仰は、十千・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐっこくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。
 この源流は、「人の体内にいる三尸(さんし)の虫が庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする中国の道教の教えに由来している。
 江戸時代、万治・゛寛文頃(一六五八〜一六七二)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚由講」が結ぼれこ庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申侍の行事や、供養塔の造立か盛んになった。
 二ッ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五p、蓮辨型で、造りだしの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。
                 昭和五十二年四月十三日 指定                                 藤沢市教育委員会  記
東海道より大山街道入口(44号線)辻堂付近 辻堂から茅ヶ崎へ行く間の松並木(小和田付近)
 大山道は、大山参詣のための道で、古くから雨乞い・豊漁・商売繁盛などの山として崇められてきた大山への参詣が、一層盛んになったのは江戸時代に入ってからのことです。
 人々は、現世のご利益を願って講中を結び、いわゆる信仰と物見遊山を兼ねて出かけました。 東海道から分かれて入る大山道は幾つかありますが、ここから入る道はもう一つの信仰地、江の島とも藤沢で繋がり、最も有名なものの一つでした。江戸時代の大山と江ノ島といえば相模では最も人気のある観光地でした。
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