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最終更新日 2017:06:01    湘南の天気予報   只今の時間    2017年06月25日(日)02時25分

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 サムエル・コッキング苑の創設者 
サムエル・コッキング伝(T)
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「江の島サムエル・コッキング苑」は、これまで「江の島植物園」として親しまれてきた施設をリニューアルしたものです。明治2年に来日したイギリスの貿易商サムエル・コッキングは、日本で家族とともに生涯を送られた親日家です。施設の名称は彼の名前に由来しています。コッキングは江の島の邸宅を構えるとともに莫大な費用をかけて植物園を作り、ボイラーの熱を利用して南国の植物を栽培したそうです。当時の島民からは「コッキング植物園」として大変親しまれていました。その後、昭和24年に藤沢市が「江の島植物園」として整備し、平成15年4月、江の島展望灯台の立て替えに併せ、「江の島サムエル・コッキング苑」として再整備されました。
 明治初期、日本新文化に寄典した外国人は数多かった中で、この江の島にゆかりを結んだイギリス人サムエル・コッキングは、明治2年(1869年)2月5日、日本の横浜に到着。その後江ノ島に来て植物園を創始したのは明治18年だった。
晩年のサムエル・コッキング
 ● コッキングの外国行き
本題の主人公エムサエル・コッキングは物心付いた7才の頃両親に伴われて英本土から出港て、オーストラリアへと旅立った。 旧式の船に乗って6.ケ月の航海後、南オーストラリアのアデレードの港に着いた。アデレードは数キロも奥地にあって原始林に取巻かれ土着の黒人が徘徊している様な寒村だった。先人が発見してくれた未開発の土地に、平和な生活を求めて産業にいそしもうと張り切って渡った人達の中にコッキングー家の姿もまじっていた。1851年金鉱が発見されゴールドラッシュとなった。黄金は苦労せず手に入るのでコッキングは余り魅力が持てなかった。それより粗暴な原住民とも馴れ合わず、彼の性格はもっと他の魅惑的なもの求めて止まない気分にかり立てられた。どうしてもこの地に長居ほ無用と思わせる迄になり両親の意見に反して、彼は意を決して両親から離れ、単身生れ放郷のイギリス本国へ立ち戻ってしまった。
 オーストラリアの新天地は彼を止まらせる魅力は何もなかったのだ。その頃支那や南洋方面から茶コーヒーを積んでイギリス本土に行き来している。当時スモークジャックと呼ばれている快速帆船の一つを手に入れ、同志をさそって船荷を日本の神奈川へ運んでどえらい船賃稼ぎをやるのも面白いことだと考え、アームストロングの小砲やスナイダー小銃を携えて船出することとした。
 普通なら旱くて118日遅ければ18O日もかかる船旅なのを185日で神奈川に着こうとしていたが、運悪く大しけをくらつて日暮れ時不気味な恰好をした高台の伊豆半島に漂着した。伊豆半島の突出た崖下に漕ぎ寄せるのにようやくのことであつたが、この地点は烈風と荒れ狂う波を避けるには適当な場所でなかった。 雨は滝のように降り密輸船の者にとってはもってこいの荒天の真暗な夜であった。知るぺとなる灯台もなく、幾つかの灯火がいたずらに彼等の航路を迷すぱかりであった。近くの入江に船を上手に廻して夜明けを待つより他にしようが無かった。
不安な一夜は明けて気付いた時は、彼等の持ってた海図にノツチアアイルランド近くの沖に漂っているのが分って、やっと生き返った思いにほっとした。ノツチアアイルランドとは今の相模湾内の江の島であって、前夜の暴風の余波にさからって入江を巡回しこの変った未知の国の景色のあやしい:美しさに、うっとりさせられてしまった。昨夜に代って隠かな残月のすがすがしい暁の江の島は、コッキングの脳裏に感銘深く焼付けさせるに充分なものがあった。 航行は続けられ、日本の土を初めて踏んだのが明治2年(1869年)8月5日であった。神奈川とばかり思って上陸したそこは、これ迄を一度も聞いたこともない横浜と言う所であった。

●維新の動乱を避け宮城県石巻へ
 
 コッキングが日本に来た明治2年(1869年)は徳川幕府終焉の大詰めに追い込まれ、明治新政府が産声をあげたばかりの日本で、まだ各地の抵抗勢力による戦争が頻発、動乱と混乱、徳川勢の廃残亡命者でごった返す横浜であった。薩長藩の尊王攘夷の烈士共が倒幕の余勢をかつて横行する混乱時に、外人の特別保護など到底やってはおれず、身の危険を避けるためコッキングは東北地方に旅立とうと持船に乗り込んで、所要の食料と護身用の武器を用意して万一に備え出向いた。
 数ケ月を仙台湾で過ごし、石巻(宮城県)に滞在した。 コッキングは石巻で大名屋敷に出入りして随分と彼等の家宝とされる珍品風雅な書画骨董の類を思う存分観賞する機会に恵まれた。時には大名の奥方がおしwidth="779">びで、コッキングの住居にまで、来られた程の親交さであった。
  時は明治3年 (18 70年)の一月、大政奉還がなされた。永い封建制度は遂に打ち砕かれ、その最後のゆらめきも今は吹き消されて、廃藩置県に依って国家全体にまとめられ日本の新しく進む道は開かれたのであった。

●再び横浜へ舞い戻り美術骨董商売で大儲け

コッキングは頃はよしと再び横浜に舞い戻って来た。そして居留地55番地のイリス商会の場所を買取って、そこでじっくり腰を落着けて仕事に取りかかることにした。さて何から手始にやろうかと思案中、彼の脳裏をかすめたことは、イギリス本国に居た頃美術について学んだことが役立ち大名に近ずきその所蔵品を見るに及んで、日本の漆器や陶磁器、絵重、置物、器物の骨薫的価値の高いものが豊富にある点に心引かれ、これこそすばらしい貿易品となるのではなかろうかとひそかに重策する処があった。
 明治10年頃から国民全員が悪性インフレ−ションにたたられ、特に低位の武士層にあってはやむなく侍の身分を売って農民となり、商人となり、或は当時ようやく発達した問屋商人からの内職に依って辛うじて生計を保つと言った状態で、窮民の地位に転落せざるを得なかった。高禄を喰んでいた者も、居食の状態が永びけぱ手持ちの家宝も段々に吐き出しての売食い生活、居留地弁天通りでの夜店は、大名達の銘宝器物の類が投げ売りされ出したがただ物珍しがられるだけでその物の真価を知って正.しい価踏の出来る人達は、一頃前の一般町民には先以て出来やしない、ましてや外人にそれの出来そうな人達は、その当時この辺には来ていなかった。
夜店に放出される書画骨董を徹底的に買い叩き,中から珍宝が堀出され、ヒト山いくらで値切った。そしてそれらをイギリスへ送って売却して大いに儲けた、法外なも,うけに有頂天になった彼でもあった。
 こんなエピソードもあった。 鎌倉の僧堂寺院は維新後の変革から経済的な窮乏に陥り、寺宝に属する仏像什器類を売に出したのは、これ迄にない堀出しものの,宝庫であった。その頃、そのお寺の青銅の飾りものが白昼奪われて売りに.出されたのをコッキングは見たと言ていた、ある日 人の紹介で鎌倉長谷村の大仏を買わぬかとの話が出て、まるで唯みたいな安値:です勧められた、では一つ拝見しようと長谷まで出かけて行きその像を目の辺り眺めていささか考えさせられた。と言うのは何も、大仏が余りにも大き過ぎるからと言うのでない。彼は以前にも何トンもある鐘を船積して送り出している経験もあれば、大仏としてこれを解体して、:ロンドンヘ送ろうか、それとも自分の所蔵物として何れかの場所に運び出そうか、心中ためらい迷っていた、彼の脳裏に突如閃めいたものは「自分は自らの手で文化芸術の破壊者となりたくない、観光旅行者達のためにではな.く世界の文化のために.古代の芸術を傷付けないためにも」と。 名誉にかけても仏陀の救い主となったのであったと語っている。彼の美術骨董商売の上にこうした世に知られていないエビソードがあった。
 趣味を兼ねて実益の伴った美術品貿易に乗り出したのも彼の教養と日本に渡り来てからの環境の影響だと思う。
石巻以来旧大名の大物との交友も多く出来、それ等の人達のおしのびが彼の上玉の客であった。ある時は徳川家に近付きを得て垂涎の珍品、雅器がしこたま入手出来たことを無上に嬉しく思わせられた彼でもあったと聞いている。.そして数多くの美術骨董品を取扱ったコッキングは既に玄人の域に入っていたし、当時は殆んど知られていず、又本当に評価されていなかった芸術に対する、初の外人としてのエキスパートであり恐らく美術骨董品蒐集家としての草分けであるとしても過言でもなかろう。
仕事に当った彼が求めて置いた広大な平沼の土地に円棟の倉庫が立ち並んでいった中の一つは骨董品が未だぎっしり買込まれていた程だった。コッキング亡き後平沼の屋敷も過ての大正12年の震災で焼け家財と共に残された骨董品も殆んど焼失してしまう。

●輸出入の貿易商社コッキング商会設立

 骨董蒐集に熱中していたコッキングも時代の推移と共に美術から一般貿易えと切替えて居留地55番館にはコッキング商会と銘打って輸出入の貿易商社として医科器具、化学器械、電機器械、測量、気象観測機具、印刷用品、薬品、染料、顔料、板ガラス、鳥銃類、写真器材、度量衡、洋酒等を輸入し、輸出の商品としては薄荷(ハッカ)と百合根があった。薄荷(ハッカ)に就ては元千葉県農事試験場の林修已技師に栽培上の指導を得て採集していたことが知られており、当時はコッキング商会と言うよりか薄荷(ハッカ)屋敷と言った方が一般に通りがよかった程で、55番館の倉庫の周辺にはハッカの香りが強く漂い倉庫に入るとスウッと涼しさを感じる程に輸出用の品が入っていた。 ヨーロッパではペパーミント油とメンソールが「コッキング・メンソール」として売られてコッキンは薄荷(ハッカ)貿易の先駆者として知られることになった。もちろんこれでコッキングが相当大きな利益をあげたことはいうまでもない。薄荷(ハッカ)に次での輸出品ぱ百合の球根であるが、この百合に就ては遠く明治の初め頃からコッキングの手に依って行わされており、55番館には大勢の雇女の手で粘土で丸め込まれ藁包にして箱詰めされ、遠く異郷の地に船旅されていた。先年、神奈川県が「県の花」として百合を挙げており、,県民に探い馴染をもつている、この花、その球根が斯くも古くこの物語りの主人公に依って海外に送、り出されていたことは横浜とコッキングをして因縁浅からぬものがある様に思える。

●医科器械商 老舗”いわしや”の先鞭コッキング商会

 明治10年(1877年)9月に支那の廈門(アイモ)から横浜に持ち込まれたコレラの病原菌が猛烈な勢いをもって蔓延し、人々をパニック状態に陥れた。罹病患者720人死亡395人と言う猛威に県当局の驚きは筆舌に尽し難いものがあった。 
 その後も年々流行の跡を絶たず明治12年、15年、19年、28年の大流行は県民をして心胆を寒からしめる憔悴振りであった。明治12年の大流行のときはコッキングの妹・フランセスが38歳で亡くなったものの、そこは商人のことで二度のコレラの大流行にさいしてコッキングはお手のものの輸入薬品の中から消毒剤としてのエタノール石炭酸を防疫に狂奔している県当局に売り込んでどえらく儲けた。
 次には古い頃から、,コッキングと取引を結んで今に尚のれんを掲げての業界の老舗を以て誇る医科器械商”いわしや”に就いてコッキング商会からの輸入品を販売することの先鞭を着けたのは”いわしや”である。では当時コッキング商会がどんな種類の医料器械を輸入しておつたか、それは筆者の手許に残つておるコッキング商会で出された和綴の美濃紙版23頁に及ぶ日本語書きで活版刷のカタログの中から拾って紹介して置こう。
顕微鏡、寒暖計 カテーテル 験温器 天秤 漏斗乳鉢 玻璃製水量計、レトルト 玻璃管、毎綿 ランセット コルク栓 義歯 歯医器械 外科道具 解剖器械 眼科器 胃卿筒 歯鉄鉗 鏡術器 陰門検査器 馬医器械直膓 ブウジー 剪刀類 膓症帯 空気枕 医用抹紙膠類之の他化学器械類として玻璃管秤類 試験度量類 玻璃製のレトルト 漏斗秤瓶 ビーケルグラ 白金針 蒸発血 濾紙 化学用諸磁器 等である。
当時としては、行き届いた登録を発行して宣伝努め、優良品を扱う信用ある店であることの保障を強調した辺りは確かにコッキングの商売上手な手並みの程が窺える。

●コッキングは日本女性を妻に迎えた。

 コッキングが日本女性を妻に迎えた。埼玉県出身の宮田りき女と結婚した。彼女の家は元酒造家であったが店をたたんで東京へと移って来ていた。そしてその頃横浜で盛況を極めていた外人商館にもぐり込んで一旗挙げ様と彼女の兄なる人はコッキング商会に使用人として入り込んで.いた。
 コッキングが宮田りき女と知る様になつたのは、彼女の兄の執成しで妹のりき女を、彼にすすめたのではなかったろうかと思える。初めは公娼の籍にあるもの以外は外人に開係することを許されず、もし一般の婦女子にして彼等の妻妾となろうとする場合には、必ず公娼の籍を得た後にその所属する遊女屋の抱え名義で名付遊女、若くは仕切遊女の名目の下に出張する慣しとなっていた。
 ところが明治5年(1872年)7月に起った南米ペルーのマリアルーズ号の事件以来当時の県令大江阜は人身売買営業禁止を命じ、その年11月2日付太政官布告を以て僕婢娼妓の解放、人身売買の厳禁の制を発した。
 このことあって以来、遊女がカゴの鳥から放たれろと洋妾女郎にも当然その影響が及び、これ迄の女郎名義の鑑札制度が無くなり、如何なる婦人でも自由に洋妾になり得る様になった。そして身売りに類した契約からではなく、外人達の欲するままに町家の婦女子が、その愛人となって行く風が目立って多くなって来ると、そうした女達の身につける華美な異国風俗が一般人の目に付く機会も多く、従って世人にうらやましがられたものだった。
  外人との結婚が自由になった頃、りき女がコッキングと結ばれたとしたら嘉永2年生れの彼女は人身売買禁止令が出された時25才の女盛りの年頃となっていた。
 りき女(1849年嘉永2年生)には1859年(安政6年生)の10才違いの、ひろ女と言う妹があってその妹も居留地55番館に厄介になっており、その後コッキング屋敷から日本人のもとに嫁入りしていたが、事情あって二人の男の子を連れて再び居留地55番館に出戻りの不運の身を寄せ姉のりき女と共にコッキングの世話になっていた。
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