湘南の古都鎌倉
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間の宿・茅ヶ崎
 東海道も四ッ谷からニツ屋を過ぎるとすぐに茅ケ崎市に入る。両側に所どころ松並木の松が見えるようになる。この辺りはかつての小和田村、右側に浄土真宗上正寺、鎮守熊野権現社、古義真言宗広徳寺があり、左側に古義喜百宗千手院がある。
 東海道の宿と宿の間にある村を、「間の村」と呼んでいました。所々の「間の村」の中には「立場」と呼ばれる馬を継ぎ立てたり、荷物を運ぶ人足や駕龍かきなどが休息する場所があり、この立場の中でも、眺望が利く場所、街道の重要な分岐点、橋のない大きな川に接するところなどでは、旅人の休憩に供される茶屋のあるものもあって、これらの茶屋を「立場茶屋」と呼んでいました。 立場茶屋は街道両側の一画に集中していましたが、江戸時代も中頃になると、所によっては次第に町場化してくるようになり、茶屋本陣や旅龍茶屋や商店が軒を連ね、旅人の宿泊にも応じる茶屋町を形成、更には、「かごや」・「荷宿」・「伝馬」などの屋号を持つ家が並ぶようになりました。
 このような町場的要素を持つ間の村を「間の宿」と呼び、神奈川では茅ケ崎の南湖と二宮の梅沢がありました。近世の茅ヶ崎市域には二十三カ村の複数の旗本などが支配する相給村落があった。
 海岸地帯は半農半漁の漁村でもあったので漁場の争論が起こったが、近世の中期には次第に海岸地先の漁場が確定していった。東海道の立場であった南湖の茶屋町は、元禄から亨保期ころに茶屋が開業し、参勤交代大名などの休憩地となった。相模川河□の中島村は対岸馬入村への東海道の渡船場が置かれ、柳島湊の船や周辺農村から船頭が動員された。明治22年(1889)、町村制により茅ケ崎、鶴嶺、松林、小出の四ヶ村が成立。同41年(1908)には小出村を除く三ヶ村が合併、茅ケ崎町が誕生。昭和22年(1947)には茅ケ崎市となり、同30年(1955)には小出村の一部を合併し現在の市域となった。
牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)
 小和田村と菱沼村両村が互いに入り組んだ東海道の小高いところ(茅ケ崎市の菱沼バス停付近)に牡丹餅立場があり、眺めが良く目の前に海が見られたといいます。
 徳川家康は、慶長六年(一六〇一)東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。藤沢宿と平塚宿の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのようによばれていました。また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。
茅ヶ崎東海道松並木 本村三丁目付近
 茅ヶ崎市内の東海道(国道一号線)黒松の幹回周り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っています。
遠い昔より、地域の人たちに親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎを与え、この風景はその時代の画家、藤広重の東海道五十三次にも描かれております。長い間、風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。
茅ヶ崎一里塚
昭和三十六年八月十五日   茅ケ崎市史跡指定
 徳川家康は関ケ原の戦いの翌年、慶長六年(一六〇一)、東海道に伝馬の制を制定し、以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。
 慶長九年(一六〇四)、徳川幕府は東海道などの一里(四キロ)ごとに塚を築き旅人の目安にしました。東海道は江戸の日本橋を起点にして、茅ヶ崎の塚は十四番目にあたります。かつては道の両側にありますした。
南湖の左富士の碑
 茅ケ崎の南湖の立場を過ぎてしばらくすると、街道が大きく右に曲がっていき、やがて千ノ川に架かる鳥井戸橋から、高い建物のなかった江戸時代、左手の方向に美しい富士山を見ることができた。江戸からの旅人は東海道のここまで常に富士山を右前方に見ながら歩いてきますが、道の方向と屈曲のせいで、この場所で突然左手富士山を目にします。浮世絵師安藤広重は天保三年(一八三二)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。
 その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いてる。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡富士市)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が世間にしられている。
東海道に建つ鶴嶺八幡宮鳥居 鶴嶺八幡宮への参道両側の松並木
 神社由緒によると
 相模の国、茅ヶ崎の総鎮守として往古より八幡信仰の地として名高い。長元三年九月(1030年)、源頼義は下総の乱を鎮定するため懐島郷(現地)に至り、源家の守護神石清水八幡宮を勧請して戦勝祈願をしました(別に宇佐八幡宮勧請説もあります)。永承六年(1051年)前九年の役(安倍一族の反乱)が起こり、陸奥守となった頼義の応援に向かった長子、源義家が懐島郷に入り戦勝祈願をしました。前九年の役が終わった康平六年(1063年)、頼義は鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である「元八幡」を建立し、当八幡宮はその旧社であることから「本社八幡宮」といわれました。歴代源家の信仰も厚く、格別に手厚い保護を受け、懐島を領地とした大庭景能は源家の再興に協力し、将軍となった頼朝に重く用いられました。弘安四年(1281年)蒙古退散の祈祷があり、この戦に大勝した日が六月閏三十日の晦日だった為「晦日祭」といいました。この「晦日祭」は両社(八幡宮と佐塚明神社)の例祭となりました。江戸時代、徳川幕府は先規により高七石の朱印地を寄進しています。昭和九年九月十五日に郷社に列格しました。当八幡宮は源氏が関東へ進出する第一歩として祀った最初の氏神社ではありますが、このことはあまり知られていません。
本社八幡宮の由来こそ源氏の歴史、関東進出の真相を語るものであります。
 祭神は応神天皇・仁徳天皇など四柱で、例大祭は九月十五日です。社殿に至る参道の両側の松並木は、朝恵が社殿の再興を記念して植えたといわれるもので、以来三百六十年余、今も変わらぬ姿は参道とともに市の史跡、天然記念物となっています。
小出川を渡る手前・旧相模川橋脚跡 旧相模川橋脚跡
 鳥井戸橋から平塚方面に行って、下町屋を過ぎ、小出川を渡る。この辺り古くは相模川の直路であったとされており、小出川を渡る手前の右手に、小さな池の中に、太さ約六十センチほどの檜の丸材が七本突き出している。
 この辺りは水田でしたが、大正十二年(一九二三)九月一日と翌十三年一月十五日に関東地方を襲った大地震によって、突然、地中から木柱が姿を現し、当時の歴史学者沼田頼輔博士によって、「吾妻鏡」などからこの木柱は建久九年(一一九八)に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために、相模川に架けた橋脚であることが考証されました。
 鎌倉時代、相模川はこの辺りを流れていました。その後、現在の相模川はそこからー・五キロほど西を流れている、当時の川筋はもっと東寄りだったのだ。橋脚は七百年もの間、土中に埋まったままでした。
 橋脚はいずれもヒノキの丸材で、、姿を現したのは七本でしたが、地中に埋もれたものが三本発見され、合わせて十本の橋脚が保存整備されています。調査によって、確認された橋脚の断面は、丸く下部はだんだん細くなり先端は尖っていました。こうしたことから、、橋くいとしては、単独で設置されていたことがわかりました。
橋の規模は、橋脚の間隔などから、橋幅は9メートル、長さは40メートル以上の立派なものであったもの推測します。全国でも数少ない大橋であったと考えられています。国の史跡になっています。
馬入の渡し
 山梨県の忍野村を水源とする全長120キロメートルの相模川(馬入川)が、相模湾に注ぐ河口付近を馬入川と呼んでいます。その由来は、橋供養に参列した源頼朝が橋を渡ろうとしたところ、川面に壇ノ浦で入水した安徳天皇の亡霊が現われ、頼朝が落馬したことからだといわれています。
 江戸幕府は大きな河川の架橋を制限していましたので、橋は架けられず、当時、川を渡る場合は「船渡し」や「徒歩渡し」などの方法によっていました。
 川幅が百m近くあり水量も今より多かったから、普段でも渡船事務や船持ちなどで時間を費やすことが多く、一旦、増水したときは川留となり滞在を余儀なくされる、難儀なところは計り知れなかったそうです。
かつての相模川には60を超える数の渡船場があったといわれていますが、この馬人の渡しでも、旅人は渡船によって行き来していました。馬人川の渡船は、船や水主(船乗り)の動員など周辺村々の負担によって成り立ち、渡船場には、平常、渡船三艘・平田船二艘・御召船一艘が用意され、これに水主が交代で乗り両岸を往来していました。馬人川の場合、渡船の費用は元禄3年(1690)当時、人1人10文、荷物1駄22文、乗掛荷16文で、その後、時代を経るにしたがって高くなっていきました。なお、参勤交代など公用通行の場合は無料でした。又、将軍の上洛、朝鮮通信使の来朝のときは、川に船を横に並べこれを繋いでその上に板を並べた「船橋」を架けたことがわかっています。この渡船は、明治19年(1886)、馬人橋の架橋まで行われていました。
 今の馬入橋は昭和55年(1980)完成の全長563メートルの橋梁です。この橋の上流、馬入川の堤には「馬入・光と風の花づつみ」と称するお花畑が美しく彩っています。なお大正12年(1923)の関東大震災で崩壊した馬入橋を当時の軍隊が僅か16日で修復したと記されている記念碑が橋の下にたてられています
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