湘南の古都鎌倉
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最終更新日 2024:04:01 湘南の天気予報 只今の時間  2024年04月19日(金)23時13分

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大磯宿
 大磯宿は慶長6年(1601)、東海道に宿駅伝馬制度が制定されると、神奈川・保土ケ谷・藤沢・平塚・小田原などと並んで最初に設置された宿場の一つで、江戸から八番目の宿場、日本橋からの距離は16里27町(65・8q)でした。
 江戸寄りの平塚宿との間はわずか27町(2・9q)と短く、一方、小田原宿との間は、4里(15・7q)で比較的長く、その間に徒歩渡しで有名な酒匂川がありました。南側の海と北側の山に挟まれた細長い町並みで、宿場としてはどちらかといえば、寂れた宿場の一つであったようです。その主な理由は、江戸からの旅人は翌日の箱根越えに備え小田原にまで足を伸ばしてしまい、又、箱根を下ってきた人は、酒匂川の渡しを前に、その疲れを休めるために小田原に宿泊してしまうことが多かったからと思われます。
 宿内の家並みは、長さ11町52間(1・3q)、江戸方より街道に沿って、山王町・神明町・北本町・南本町・茶屋町(石船町)・南台町の6町で構成されていました。江戸後期の人口は3.056人、家数は676軒で、三つの本陣と66軒の旅龍は北本町・南本町・茶屋町に集中し、問屋場は北本町と南本町の2ヵ所にありました。
 江戸方見付は化粧坂と山王町の間、上方見付は鴫立庵を過ぎてしばらく行った地点にあったとされていますが、現在、その跡は残っていません。
安藤広重の「東海道五十三次」の大磯宿
東海道沿いの神社鳥居(山神輿祭り) 高来神社
 平塚の宿から花水橋を渡ると高麗寺村を経て大磯宿に入りました。
江戸時代までは高麗寺に属し、明治元年の神仏分離によって高麗神社となり、高麗寺は廃寺となっています。この高来神社は、元々、山上にあった高麗権現社を中心に神仏習合の高麗寺として、家康の関東入国にあたって寺領百石を与えられ、朱印地のみで一村を形成するほどの古刹として栄えてきました。
 さらに、明治30年に高来神社と改称しています。 縁起によると垂仁天皇の御代の創建と伝えられている。かっては、上社(現存しない)、下社に分かれ、高麗山頂の左右の峰には白山と毘沙門を勧請して三社権現と称していました。土地の人たちは今でも高麗の権現さまと呼んでいます。
 4月に高麗の山神輿(やまみこし)の行事があります。 また植木市も開かれます。
大磯化粧坂(おおいそけわいざか)虎御前の化粧井戸
 大磯宿に入る手前のこの辺りは、江戸時代においては殆ど人家もなく、道の両側に木々が立ち並ぶ並木道でした。源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、鎌倉と京都を結ぶ道は上洛道として発展しました。これが東海道の始まりと伝えられています。 鎌倉時代、大磯の中心は化粧坂の付近にあったと思われます。下向の道筋には鎌倉武士を相手とする遊女もいて大変賑わったといいます。曾我兄弟の兄十郎祐成との悲哀物語で知られる虎御前もこの近くに住み、朝夕この井戸の水を汲んで化粧をしていたことからこの名がついたといわれています。 舞の名手虎御前と曽我兄弟の伝説は、鎌倉時代の大磯を代表するものです。
北組問屋場跡
 全国各地からの書状や荷物の継ぎ立てを行う場所で、新しい人足や馬が準備されていた。大名行列などの際には大磯周辺の助郷村々から人足や馬を動員する差配を取り仕切っていた。そして宿場の運営にたずさわっていた重要な場所である。
延台寺
 日蓮宗のお寺で、開山慶長四年(1599)身延山十九世、法雲院日道創建すと伝えられています。 延台寺は虎御石の伝説が伝わるお寺として有名で、舞の名手虎御前と曽我兄弟の伝説は、鎌倉時代の大磯を代表するものです。
 曽我十郎の恋人であった虎御前が、十郎亡きあと尼となって、高麗山北麓の虎他の傍らに小さな庵「法虎庵」を営んだのが始まりといわれ、その後、永禄年間(一五五八〜七〇)、この地に移ったとされています。この寺に残されている「虎御石」は、虎御前が生まれ落ちたとき、子宝のお告げとして授かったものといわれ、初めは小さなものでしたが虎女の成長とともに大きくなり、後に十郎が工藤祐経の刺客に矢を射掛けられたとき、この石の蔭に隠れ、十郎の身代わりとなって矢や刀をうけた石と伝えられ、現在、延台寺に所蔵されています。
小島本陣跡
尾上本陣跡 石井本陣跡
 宿場で参勤交代の犬小名や公用の幕府役人、勅使、公家宮門跡などが旅の宿泊に用いる大旅館を本陣という。 本来本陣とは、軍陣におげる総大将のいる本営であるが、大名旅行も軍陣に見立てて此の名称が用いられた。享和三年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣がありその建坪は夫々 246,238、235坪であった。本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる床の間と違い棚のある書院造りの御上段の間があり、その前には庭園がある。大名と側近は本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。大行列の場合は隣の宿まで使用しなければならなかった。 尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれていた。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの現在の大内館(旅館)の場所にあった。
 これ等の本陣は天保七年(1836)の大磯の大火で焼失した。再建されたが建坪は縮小している。後 慶応元年(1865)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、本陣の経営の並々ならぬ努力が偲ばれる。
南組問屋場跡
 幕府からの書状の継立てや、参勤交代の大名行列の際に周辺の助郷村々から動員された人足や馬の差配を取り仕切る場所であり、宿場にとって大変重要な施設であった。大磯宿には、南組と北組の二箇所に問屋場がおかれていた。
高札場跡
 高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。現在、民家の庭の中にあり、跡影もない。
鴫立庵
 鴫立庵は寛文四年(一六六四)、小田原の外郎の子孫であった崇雪が、西行法師の有名な歌、「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の秋の夕暮」の沢らしい面影を残し、しかも景色の優れている場所ということで草庵を結んだのが、その始まりといわれています。
 その後、元禄八年(一六九五)、俳人大淀三千風が庵を再興して人庵、鴫立庵第一世となりました。
彼は堂を造って西行の像を安置し、歌人や俳人から作品を求めるなどしましたのでこの場所が一躍有名になり、その後、鳥酔・白雄・葛三など著名な俳人が跡を継いで、今日の二十二世現庵主まで続いています。
敷地内には京都の「落柿舎」・滋賀の「無名庵」と並ぶ日本三人俳諧道場の一つである俳諧道場があるほか、等身大の西行法師の像が安置されている円位堂や有髪僧体の虎御前の木像が安置されている法虎堂とともに、多数の墓碑・句碑・記念碑などがあります。
上方見附
 見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入リロにも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。 街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは一・六メートル米程でその上に竹矢来が組まれていた。
 宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。 この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。 そこには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。 この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出人口を示す役目をはたすようになった。
大磯の松並木
 ここ大磯の松並木は、現在でも当時の風情を残す東海道屈指の松並木の一つです。かつての東海道沿いには、神奈川県内の東海道でも川崎から箱根までの二十里十七町(約八十q)の往還を通して、六割に並木があったことが推定されています。
 慶長九年(一六○四)、家康の命によって街道に植樹された並木は、その美しい景観のほか、街道を歩く人の道しるべ、強い夏の日差しから身を守る日除け、強い風雨から身を守る風除け、火災から人家を守る火防、道路の保全など数多くの役割を果たしてきました。そのため、その保護には並々ならぬ苦心が払われていたようで、例え領主であっても勝手に切ったり処分することは許されていなかったそうです。
西長院(身代り地蔵尊、首切れ地蔵、延命地蔵、化け地蔵)
 中丸国府本郷の西長院にある地蔵は行基の作と伝えられ、かつては切通しの岩窟中にあ りましたが、昭和はじめの国道改修にあたって現在地へ移転しました。
 この地蔵は別名「身代わり地蔵」と呼ばれ、広く信仰を集めています。縁起によると、源頼朝が鎌倉の鶴ケ岡八幡宮に参拝した際、狼籍をはたらいた者がおり、梶原平三景時の子悪太郎義景が疑いをかけられ畠山重忠によって討たれてしまいました。しかし、地蔵に帰依していた悪太郎は難を逃れ、地蔵が身代わりとなったといいます。
 また、大住郡岡崎四郎の娘が毎夜参拝していたところ闇討ちにあいましたが、やはり身体に別状はなく、代わりに地蔵の首が落ちていたといいます。なお、これらの話が転じて、東海道の旅人をたぶらかす「化け地蔵」などと言われた時期もあったようです。
 かつては1月24日、8月24日、10月24日には、近在の年寄たちがお籠もりをして念仏を唱えたり、付近には店が出てたいへん賑やかだったようです。また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。現在でも毎月24日の縁日には、地元の年寄たちが集まって念仏を唱えています。
国府本郷・一里塚
 慶長9年(1604)、徳川家康は秀忠に一里塚の築造を命じました。一里塚は日本橋を基点として、各街道に一里(約4キロメートル)ごとに設けられた塚です。
 土の塚を築いて里程の目印とし、塚の上には大木が植えられ、その木陰は旅人の休憩所となりました。
 大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿地内に、17番目の一里塚が国府本郷村地内にありました。国府本郷の一里塚は実際にはここより約200メートルほど江戸よりに位置していました。塚の規模は不明ですが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようです。 この国府本郷村の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造したものです。
六所神社
神社由緒によると
 第十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、この地を『柳田郷』と名付け、氏族の祖神たる櫛稲田姫命を守護神とし『柳田大神』と称しました、御創建は崇神天皇甲申の歳と伝えられております。
大化改新後、奉遷歴勅を以て相模国八郡神祇の中心たる、相模国の総社として現鎮座地に遷座いたしました。 その時より、柳田大神に、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮の分霊を合わせ祀り相模国総社六所神社と称されるようになりました。 鎌倉時代には、源頼朝公の崇敬誠に篤く、治承四年富士川の合戦の戦勝祈願を始め、奥方の北条政子の安産祈願等たくさんの記録があります。 戦国時代には、戦国大名の小田原北条家の崇敬も大変厚く、また、後に関東を支配した徳川家康も此に倣い、六所領五十石(相模国では2番目の大きさ)寄進の御朱印状をよせ、以後歴代の徳川将軍も同様に五十石を寄進し明治に至っております。
国府祭(こうのまち)
 毎年五月五日に行われる六社の合同祭儀は「国府祭(こうのまち)」は、国府本郷の神揃山や大矢場を中心に、一之宮(寒川神社)、二之宮(川勾神社)、三之宮(比々多神社)、四之宮(前鳥神社)、平塚八幡神社の5社の御輿が寄り集まって六所神社との間で特殊な祭祀がとりおこなわれます。 
この地に国府が営まれるにあたって近在の有力社を合わせ祀ったとする総社制度に由来し、1千年近くの伝統をもつと言われており、また、六所神社の母神のもとに五人の兄弟神が集まり、1年の悪神平定の手柄を報告し合うのだとも伝えています。
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