湘南の古都鎌倉
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最終更新日 2024:12:01 湘南の天気予報 只今の時間  2024年12月15日(日)04時31分

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● 湘南を舞台とした太陽族映画

 石原裕次郎の「太陽の季節」がわだいを呼び大ヒットしいわゆる太陽族映画は若者に大きな反響を呼び、海岸、特に「太陽の季節」や「狂った果実」の舞台となった湘南海岸には、映画の風俗を真似る若者達が集まり、いわゆる「太陽族」という若者である、「最新の」若者文化を描くこの種の映画は「太陽族映画」と呼ばれるようになった。
若者映画の舞台として湘南を登場させる映画であった。その嚆矢となったのが「太陽の季節」である。.この作品は昭和31年(1956)1月に芥川賞を受賞した石原慎太郎の小説を原作としており、発表当初から過激な若者風俗の描写が話題となっていた。そのモデルとなったのは慎太郎の実弟・裕次郎の学生生活であった。一橋大学で「左翼インテリ風な学生文化」つまり「ロシア型」学生文化に属していた慎太郎は、慶応義塾大学で「ジャズとダンスとヨットに興じる」「アメリカ型」学生文化を謳歌していた裕次郎とその生活を描いたのである。


 
原作は若者から一定の支持を得ていたため、5月17日に封切られた映画も話題作として人気を呼んだ。ストーリーは、高校生の竜哉が英子という女性と関係を持つようになるところから始まる。二人はお互いに愛情を感じるようになるが、竜哉は献身的に愛情を捧げようとする英子が煩わしくなり、兄の道久に英子を5000円で売り渡してしまう。だが、竜哉が本当は自分を愛していると知った英子は、5000円を道久に払い戻す。夏が過ぎ、妊娠した英子は中絶手術を受けるが経過が悪く死亡してしまう。竜哉は英子の葬儀に突然現れ、香炉を英子の遺影に叩きつけ、驚く大人たちに「あんたたちにや、何も判りやしないんだ!」と叫ぶところで映画は終わる。
太陽の季節」の興行が成功すると、各社は次々に石原慎太郎の小説を映画化し、公開した。翌月の6月28日には大映が「処刑の部屋」を公開し、7月12日には日活が「太陽の季節」姉妹編として、石原裕次郎を主役に抜擢し「狂っ果実」を公開した。さらに、9月26日には東宝が「日蝕の夏」を公開したが、この作品には石原慎太郎本人が主役として出演した。これらの映画は若者に大きな反響を呼び、海岸、特に「太陽の季節」や「狂った果実」の舞台となった湘南海岸には、映画の風俗を真似る若者達が集まり、評論家の大宅壮一は彼らを「太陽族」と名づけ、「最新の」若者文化を描くこの種の映画は「太陽族映画」と呼ばれるようになった。
 石原慎太郎の小説は、雑誌発表段階で若者に大きな社会的影響力を及ぼしたが、映画は文字では具体化できなかった。ファッション・言動などを可視的なイメージとして分かりやすく示す役割を果たし、若者に対しモデルを示したのである。さらに、石原裕次郎の人気も、若者に対する社会的影響力に相乗効果をもたらしたと考えられる。
 太陽族映画は若者の憧れを一定程度喚起し、さらには若者だけではなく、湘南海岸への一般の集客効果をも高める一端になったのである。例えば1954年に開館した江の島水族館では、「太陽の季節」の大ヒットによる「湘南海岸の大衆化が追い風」になった。.
湘南をロケ地として記録された作品
「狂った果実」(日活)監督中平康・主演石原裕次郎・北原三枝(1956年公開)、
「太陽とバラ」(松竹)監督木下恵介・主演中村嘉津雄・石浜朗・沢村貞子(1956)、
「八月の濡れた砂」(日活)監督藤田敏ハ・主演広瀬昌助・村野武範(1971)、
「湘南爆走族」(東映)監督山田大樹・主演江口洋介・織田裕二(1987)、
「稲村ジェーン」(プロデュースハウスアミューズ・ビクター音楽産業・パブリッシャーハウスアミューズ提携作品)監督桑田圭祐・主演加勢大周・金山-彦(1990)、
「波の数だけ抱きしめて」(フジテレビ・小学館)監督馬場康夫・主演中山美穂・織田裕二(1991)などがあるが


● 若大将シリーズが作った湘南のイメージ

太陽族映画で形成された、「湘南=若者」というイメージを固定化したのは東宝で製作された加山雄三主演の「若大将シリーズ」の影響が大きいと思われる。若大将シリーズは昭和36年(1961)の第1作「大学の若大将」以降、10年間に16作品が製作され、設定は作品毎に若干異なるが、加山雄三演ずる若大将こと田沼雄一が学生生活(後に社会人となる)の中で、様々なスポーツに挑戦し、健康的な恋愛をするいう大筋で作られている。
もともと若大将シリーズは、松竹で1930年代に製作された「大学の若旦那シリーズ」に着想して製作された作品群である。「大学の若旦那シリーズ」は、既存ジャンルであった学生生活ものに、水泳や陸上などのスポーツという新しい要素を取り入れたもので、当時その新鮮さが観客の評判を呼び、設定を様々に変えて製作された。加山の父・上原謙もこのシリーズに出演しているが、東宝のプロデューサーである藤本真澄が現代の大学の若旦那シリーズとして、「主役の等身大のヒーロー」に前年にデビューした加山雄三を起用して製作を行った。加山雄三は茅ケ崎で育ち、自身が幼少の頃より様々なスポーツを楽しんでいた。特にボートや水泳、スキーなどを得意としていたが、かなり早い時期から自作のボードでサーフィンも行っていたという。若大将シリーズヘの用は、このような加山の素地を生かしたものであった。


若大将シリーズでは全編でロケが行われているが、海の登場するシーンが非常に多い。これは田沼雄一が海が好きで水産大学に入学したという設定と、実際に加山がマリンスポーツを得意としていたということに起因するが、頻繁に海のシーンが登場することで、「若大将シリーズ=海」という認識が観客の間に形成されていった。そして、代表作の1つとされ、加山が実際に所有していた船・光進丸が登場する「海の若大将」以降、「若大将シリーズ=海=湘南」というイメージが定着していくが、実際に若大将シリーズに登場する海はどこの海なのであろうか
海外ではハワイ、タヒチ、ブラジルなどでロケが行われているが、「海の若大将」の場合、撮影の多くは関西で行われている。田沼が所属する「京南大学水産学部」は兵庫県西宮の関西学院大学でロケが行われ、海岸のシーンは大阪湾西宮沖で撮影されているのである。これは製作会社が東宝・宝塚映画であるため、宝塚映画のスタジオ付近でロケが行われたためであった。
 シリーズ中確実に湘南が登場しているのは「南太平洋の若大将」(1967年)で登場する江の島水族館である。画像情報だけで海の場所を特定することは困難であるが、イメージされているより、若大将シリーズにおける湘南地域の登場は少ないと思われる。これは、加山が茅ケ崎出身であるという事実が「若大将シリーズ=海」という図式に結びついたためであると推測される。10年という長期間のシリーズであり、なおかつ学生から社会人へと観客と共に成長する設定が共感を呼び、若大将シリーズもまた若者層に高い支持を得た。そして田沼雄一のアイビールックやラフなファッション、仲間に囲まれた明るいキャンパスライフが若者の憧れを喚起したのである。 
 太陽族映画が湘南地域イメージを全国規模で若者層に拡大する役割を果たしたとするならば、若大将シリーズはそれを健全化し、普遍化する役割を果たしたといえるだろう。
 ただし、太陽族映画の舞台が明確に湘南海岸であるのに対し、若大将シリーズにおいて明確に湘南地域が登場するシーンは少なく、若大将シリーズと湘南地域の結びつきは、加山雄三を媒介して成立している、いわば現実からは乖離したイメージであった。しかし、若大将シリーズにより普遍化された「健全な若者がおくる青春の舞台としての湘南」のイメージは、シリーズの中で固定された。

● 
「湘南ボーイ」


 
80年代の若者向け雑誌において、「サーファー」と同様に頻繁に使用された用語として「湘南ボーイ」がある。この言葉の語源や出現時期は不明であるが、映画「太陽の季節」「狂った果実」を通じ、湘南の地域イメージの結びつきが強かった石原裕次郎と、映画の若大将シリーズで一躍若者の憧れとなった茅ヶ崎育ちの加山雄三という2人が慶応義塾大学出身であったために、「湘南」と「慶応ボーイ」とが融合して発生したという発端が考えられる。 
 「湘南ボーイ」という言葉の使用は1960年代以前にさかのぽると推測されるが、出版メディアにおける一種の流行語として頻繁に使用され始めるのは1970年代からと思われる。
 『POPEYE』1976年5月25日号では藤沢市在住の読者からの投書に「湘南ボーイ」という言葉が登場しており、70年代後半にはこの用語がある程度の社会的認知を得て使用されていたことは確かである。しかし1970年代末には「湘南ボーイ」という言葉は変質し、単に湘南在住の若者を指す言葉ではなくなっていた。「湘南ボーイ」は普遍的な用語として特に女性誌・ファッション雑誌での多用が目立つようになっており、その語義はかなり拡大していたのである。女性誌における使用例を分析すると、狭義には湘南でマリンスポーツをする若い男性、特に湘南在往者をさすことが多いが、湘南在住は必ずしも必須条件ではなく、他地域から湘南に通ってくる人々も含まれている。また、マリンスポーツをやっていることも必須条件ではなく、「湘南地域に集まる若い男性」という広義の意味で用いられていることが多い。在住やスポーツ経験を必須条件としていないことは、「湘南ボーイ」が追従・模倣可能なカテゴリとしてとらえられていたことを示すといえるであろう。
 80年代に1例確認できる以外、他地域に関しては見られない。 しかし、70年代後半の『POPEYE』においては、後年の女性雑誌の特集記事に見られるような、特定の人物をモデルとしライフスタイルやファッション目標とするという手法で「湘南ボーイ」が語られることはなかった。サーファーやショップのオーナーなどの紹介は見られるが、次に挙げる証言のように、『POPEYE』では模倣すべき具体的モデルを立てることはなかったのである。
  『……雑誌が読者をつくっていくっていうのが、本来の姿だと思いますよ。いままで読者はそんなこと考えてなかったのに、『ポパイ』読んで、「おお、そうか、おれもサーフィンやってみよう」とかね(笑)。(中略)雑誌っていうのは、もちろん現実の反映でもあるんだけど、その一方で、  もう一歩現実の先に行ったものを予見させるものじゃないだろうか。雑誌に賛同するひとは「そうだそうだ」って言って、サーファーの格好してみたり、同じ物言いしてみたり。だから、いつもひとりの“まぽろしの人間”に行き着くっていうの?実際は、そんな人間いないわけですよ。こういう人間が時代をつくっていくんじゃないかとか言うことは、言葉だよね。……でも、それがやっぱり「そうだ」と思って雑誌で提言することによって、現実に“ポパイ族”みたいなのが生まれてくるわけよ。』
  「ポパイ族」とは『POPEYE』をファッションやライフスタイルの「教則本」として使っていた若者遠のことであるが、実際に湘南に集まってくる「湘南ボーイ」も同様の過程で発生したと推測される。
 また「湘南ガール」という対称用語は、1978年6月20日号の『POPEYE』で既に使用されており、80年代には女性誌を中心に、スポーツ用語としてではなく、サーファー風の格好、具体的にはマリンテイストの服装や、レイヤーカットの髪型の女性を指すファッション用語、また単純に湘南に集う女性を指す用語として、女性誌を中心に広く使用されている。しかし「これを満たせば湘南ガール」という条件が存在するわけではないために、かなり広範な意味で使用されている。
 「湘南ボーイ」「湘南ガール」という言葉に具体的モデルは存在しないが、出版メディアのなかで仮想構築され
、それが情報として流通することで、若者が模倣し、「湘南ボーイ」「湘南ガール」が増殖していくという現象が発生したと考えられる。すなわち、1970年代末以降、出版メディアで用いられる「湘南ボーイ」「湘南ガール」という言葉は、人物を指す用語ではなく、湘南に若者が集まってくるという「現象」を指す用語に近くなっていたと考えられるのである。
言い換えればこれは現実の湘南と、出版文化における湘南関連の情報が乖離し、情報がひとり歩きを始めていたということができるであろう。

                     「湘南の誕生」 編者「湘南の誕生」研究会 藤沢教育委員会発行より

湘南海岸は太陽族映画の舞台になり、石原裕次郎、石原真太郎(葉山)、若大将シリーズでは上原健、加山雄三(茅ヶ崎)など、映画の隆盛期に大活躍した俳優おり、太陽族映画は若者の憧れを喚起し、さらには若者だけではなく、湘南海岸への認識を高めたようです。又、.太陽族映画の舞台が明確に湘南海岸であるのに対し、若大将シリーズにおいて明確に湘南地域が登場するシーンは少なく、若大将シリーズと湘南地域の結びつきは、加山雄三を媒介して成立しているイメージであったようです。しかし、若大将シリーズにより普遍化された「健全な若者がおくる青春の舞台としての湘南
」のイメージは、幅広く全国的固定されたようです。
                                                                                               2005年8月
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