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湘南物語は下記の文献を参考にさせて頂いております。ここで深く御礼申し上げます。
湘南物語 参考文献

湘南の海水浴場

日本は四方が海に囲まれた島国です。海に面した町の人々は、海で泳ぎ、漁師は、海で生活を営み、自由奔放に、泳ぎ回っています。湘南も太平洋の相模湾に面した地域です。多くの漁村があり、町の人々は、海に馴染んでいます。ところが、「海水浴場」となりますと、広辞苑に「運動、避暑などのために、海水に浴し、または泳ぐこと」と定義されています。
初期の頃は「医療目的の海水浴」になっていたようです。 今、海水浴は現代の夏の代表的なレジャーのひとつであります。その海水浴場が、日本で最初に発祥したところが湘南であるというのです。

 海水浴場の歴史

明治18〜20年頃、湘南海岸の各地に相次いで海水浴場が開設されて夏の海辺はしだいに賑やかになりました。ではそれ以前はどうだったのでしょうか。
 海水浴の歴史を調べてみますとイギリスで始まり、ヨーロッパ、アメリカで普及した近代海水浴は明治の始め、すでに一世紀の歴史を経ていました。ヨーロッパやアメリカでは海水浴は夏の生活の一部となっており、片瀬・江の島を訪れた外人の海水浴をした記録が残されています。
 明治5年(1872)の夏、フランスの法律家ブスケはカタシエ(片瀬)で夕食前に海水浴をしています。明治9年にはフランスの東洋学者エミール・ギメも片瀬の海で海水浴を行い。 また明治10年にアメリカ人エドワード・モースが江の島で海水浴を行なったとされています。またドイツ人医師ベルツは、 明治12年(1879)、内務省の役人から海水浴場に適する地について諮問を受けた折、片瀬を適地として推薦している。このように藤沢は、日本人による海水浴が導入される以前から、海水浴の歴史を持っています。
 吉田克彦「湘南再発見」によりますと、「明治10年(1877)、シャミセンガイの調査のために日本にやってきたアメリカの動物学者モースは7月17日に江の島に到着、以後 16週間にわたる臨海実験所の生活を始めます。8月11日(土)の午後5時ごろ、同行してきていた東京大学の外山教授や松村助手らと一緒に海水浴をしています。これは松村助手の日記のこの日のところに「海水に浴す」と書かれているので分かったのですが、モースが書いた日本の見聞録「日本その日その日」にはこの日の海水浴のことは見当たりません。このことはモースにとっては書き留める程の珍しい出来事ではなかったのに対して海水浴の初体験は日本人にとっては記録に値する出来事であったと考えられます。
 日本最初の海水浴の公式記録は明治13年(1880)大阪鎮台の兵士が脚気治療のために明石海岸で行ったとされていますが、これより三年も前に江の島で日本人が近代海水浴なるものを体験していた訳で、大森貝塚の発掘や進化論の紹介など日本におけるモースの多くの業績の一つに近代海水浴の日本への紹介も是非加えたいものです。」とあります。
 
また、「横浜もののはじめ」によりますと「明治15年ごろ、外国人をみならって、日本人も海水浴を始めた。海水浴場としてにぎわったのは現在の新山下町地先だった」となっており、横浜より五年も早く日本人が海水浴をした江の島の海は、どうやら「日本における近代海水浴発祥の地」と名乗っても誰も文句はあるまいと思います。」とあります。

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海水浴場発祥の地
                                                 
 
海水浴が我が国で行なわれるようになったのは、明治に入ってからである、その発祥地は大磯であるというのが通説である。 大磯海水浴場の開設は、陸軍軍医総監を勤めていた松本順に関わるところが大きい。松本はかねてから海水浴に注目しており、海水浴を実施するのに適切な海岸を探していた。そして明治17年(1884)大磯の海浜が海水浴に適することを発見し、地元の有力者に海水浴の効能と、海水浴場の開設が大磯の発展に力を添えるものになることを説き、翌 明治18年(1885)、開設に至ったというのが、大磯海水浴場の起源である。 しかし、一方で富岡(横浜市金沢区)、保田(千葉県安房郡鋸南町)、二見が浦(三重県度会郡)、鎌倉など「海水浴発祥の地」を標榜している地域も少なくなく、「海水浴発祥の碑」というものも複数地域に存在している。
 県下で著名な海水浴場として、本牧、富岡、七里ケ浜、片瀬が挙げられているが、片瀬では、明治初期には、早くも外国人の海水浴が行なわれていたことが知られている。
 富岡は、明治10年(1877)に慶珊寺にアメリカ人医師ヘボンが逗留し、宮の前海岸で海水浴をしたと言われている地である。ヘボンはリュウマチに苦しんでいる最中に、おそらくその治療として富岡へ海水浴に出掛けたものと思われる。
 ヘボンが富岡を海水浴場として紹介したことは、現段階では実証できないが、ヘボンが富岡を海水浴の適地であると発言したことに影響され、居留地の外国人が富岡に多く訪れたという。
 富岡が外国人の海水浴場や保養地として利用されていた土地であり、横浜の居留地で暮らす外国人が夏を過ごす恰好の地となっていた。
 それに名を馳せた富岡には、明治16年(1883〜84)年頃、著名人が競って別荘を構えた。別荘主は井上馨、伊藤博文、三条実美、松方正義、大鳥圭介などの面々である。また夏に富岡へ海水浴目的で来遊する人々の便宜のために、交通ルートを紹介する広告記事が載り、富岡での別荘所有者以外の一般来遊者が多く存在している。
 著名人の夏の過ごし方の新しいスタイルとして海水浴は認識され、人々は憧憬をもって海水浴を受容していったのである。
 では、なぜ富岡に変わって、大磯が海水浴発祥の地といわれるようになったのであろうか。
 富岡は明治19年(1886)の8月14日には既に、神奈川県富岡の海水浴場は昨今入浴に赴く人多く一方なら混雑や物価の騰貴、温度の上昇など、富岡があまり快適でなく、既に富岡海水浴場には、「外国人」という売り文句はなく、料理や温浴施設など、現地での遊楽を売り物にし、西洋と高級感あふれる空気をあじわう夏の避暑から、世俗的な海水浴場となった富岡の変化と さらにもうひとつ、富岡が衰退していった条件を指摘することができる鉄道の開通である。
 富岡が交通の便の悪さから、次第に海水浴場としても保養地としても衰退していったと指摘しているのである。神奈川県下の海水浴地図は変化の時期を迎えていたのである。

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大磯海水浴場の発祥

 
幕末に活躍した幕臣に松本良順という医者がいました。彼は将軍家茂、慶喜の侍医となり、戊辰戦争では終始幕府軍のために尽力したことはよく知られている通りです。 ところで明治18年(1885)、大磯の海岸に本邦初の海水浴場を開設したのは初代軍医総監となった松本順です。松本順のお孫さんの松本圭太氏が書いているものに「松本順は幼名順之助で蘭学医佐藤泰然の次男として・・・生まれる。18才の時、幕府の医学試験に合格、幕臣松本良甫の養子となる。其の頃から良順と名乗るようになる……」とあったので松本良順と松本順は同一人物であることがわかります。
 この間の事情を大磯町役場発行の海水浴100年記念誌「磯のかおり」から拾ってみますと、アメリカのペリー艦隊来航に狼狽した幕府はその一月後にオランダヘー○隻あまりの蒸気船を注文しました。これに伴ってオランダによる海軍伝習がはじまります。安政4年には有名なカッテンディーケを始めとする第二次オランダ教師団が長崎に到着しており、この中には医師ポンペもいました。松本良順はこのポンペに医学を学びますが、蘭書の翻訳中に海水浴のことがあったので、これをポンペに尋ねると「欧州では海水浴と云う事は、唱えられているが、海岸の好適地が少ないためあまり一般には省みられてないが、日本は四面海があるから適当な地があるだろう」と答えたのだそうです。
 松本順はその後幕末維新の激動期のなかで海水浴に拘っている暇もなく、退官した明治12年(1879)に至って海水浴場好適地を求めて全国漫遊を始めています。その後の事情は松本順の自伝によりますと「明治17年、相州小田原に滞在し、土人に、海水浴場を設けしめんと説くに、みな馬耳東風、予が説くを聞く者なし。即ち、縁なきを以て去り、途大磯を過ぐ。この地に、旧門人あり。之を問う。日く、弊村も海岸なり。予大いに悦び、出でて之を見るに、その地勢、海潮甚だ優れり。
よって駅の中央宮代屋に泊し、海水浴の人に益あるを説く。旅館宮代講吉なるもの、頗る識あり。大いに喜び、自ら奔走して、同志者を募らんことを期す」とあります。かくて明治18年(1885)の夏、オランダ海軍伝習から何と28年の後に、その申し子として日本最初の海水浴場が大磯の照ケ崎海岸にお目見得したのです。
 海水浴場が開設されたが、人気は今ひとつ盛りあがらなかった。これはコレラが大流行し日々の生活にも影響が出る中、人々が敢えて海水浴という行楽をすることを避けたからという考え方もある。しかし 明治19年1886年は、新聞に「富岡に海水浴」という記事が並んだ年なのである。また同年7月には、栗橋(埼玉県北葛飾郡栗橋町)で200名が競う遊泳大会も開かれている。これらの事実はコレラが人々の浴することを妨げたわけではないことを示している。
 しかし 
明治20年(1887)状況は一変する。7月大磯海水浴場に梼龍館が完成した。7月1日には、梼龍館の情報として、「今度松平太郎、渋沢喜作、米倉一平其他有志諸氏が発企人となり東海道大磯宿浜辺へ題号の如き海水浴場を設け旅客を宿泊せしむるよし其の構造は総て洋風となし至近は凡そ五万円程の見積りなりと」とあり、大磯の梼龍館が上流階級の利用に耐えうる高級な作りとなっていることがわかる。8月7日、歌舞伎役者や落語家が、300人の招待客を接待するという盛大な開業式が、大磯の高麗神社の祭礼と日を重ねて開催された。大磯中の旅館は大盛況となり、町の賑わいは更に強調され、招待客の新聞記者により大きく報道された。松本順は、前年出版した『海水浴法概説』に続いて、翌 1888年には「大磯海水浴」を著し、大磯が最良の海水浴場であることを強調し、大磯海水浴場の名は広がっていったのである。
 ほぽ時期を同じくして、それまで新聞記事にあまり登場しなかった鎌倉の由比ケ浜海水浴場に鎌倉海浜院が開業し、鎌倉に顕れた西洋は大きく報道された。鎌倉海浜院は木造洋館で、館内の装飾はもちろん、食堂・客室、日用品に至るまで全て洋式で整えられていた。食事も保養の一環として、基本的には三食共洋食だったようである。海水浴は、医師や監視員の付き添いのもと、スケジュールに従い、1日1回から2回行なった。長与専斎は鎌倉に西洋の海水浴医療施設をそのまま出現させたのである。
明治20年(1887)8月7日には、「当日ハ開業の二日目なる来賓ハ既に其半に満ち中には渡辺議官、岩崎参事官、陸軍士官学校教師、カミイルジロー氏、本野旧横浜税関長をも身受たり」と鎌倉海浜院を利用する面々も記事で紹介されている。 1887年8月16日の鎌倉海浜院の広告を見てみると。鎌倉海浜院に宿泊できない満室状態がたびたび発生していることがわかる。このような資本投入が為されたのには、大磯や鎌倉には集客を見込める強みがあったからである。それはこの年の7月11日に東海道線が国府津まで開通したことであった。

 
富岡海水浴場から湘南の海水浴場へ

 
鉄道が開通した明治20年(1887)以降は、それまで皆無だった大磯への避暑が、著名人の暑中休暇の動向として続々伝えられている。しかも特徴的なのは、「海水浴」という文字の多さである。「四大臣」と題された記事から避暑の行き先と目的を列記すると、「西郷海軍大臣・豆州熱海より帰京」「山県内務大臣・大磯海水浴」「松方大蔵大臣・富岡別荘」「大山陸軍大臣・静岡」と記されている。大磯も富岡も海水浴場があり、また松方正義が富岡に別荘を所有しているのと同様に、この時期、山県有朋も既に大磯に別荘を所有しているが、大磯に別荘という表記はされず、海水浴と記されているのである。東海道線の大磯駅開業から2年目の夏である。 明治21年(1888)8月16日には、当時の東日本における海水浴の様子を伝える記事がある。
 海水浴場が温泉を凌ぐ勢いで隆盛を極めている様子が記されている。しかしこの後海水浴記事は湘南地域へと集中していき、新聞紙面に於て富岡の地名を発見することは難しくなってくる。
 神奈川県下に次々と開設されていった海水浴場であったが、鉄道という新たな条件に適わなかった富岡は、自然客足が減り、逆に横浜から遠方にあった藤沢や大磯は、鉄道開通による近距離感覚によって大いに賑わうことになる。逗子、鎌倉及び長谷、茅ケ崎、平塚、大磯及び小磯、国府津、小田原など、相模湾沿岸の鉄道沿線地域に多くの海水浴場が開設していることが確認できる。海水浴場は鉄道と密接な関連をもって開設されていったのである。
 東日本における海水浴場の開設は、時間的な枠でみれぱ、富岡が嘆矢であろう。だが、富岡は短期間で衰退し、のちの海水浴の大衆レジャー時代まで生き残ることはなかった。富岡が時代の中で忘れられた海水浴場になった一方で、大磯は鉄道開通と共に発展した湘南地域の海水浴場の代名詞になっていったのである。 大磯海水浴場は、開設時期を問題にすれば、日本最初の海水浴場発祥地とは言い難い。しかし「現代につながる海水浴」という意味においては、日本の海水浴場の代表的存在と位置づけることができるのである。
 鎌倉、藤沢、大磯は、地形的には三浦半島西岸から伊豆半島東岸を結ぶ相模湾沿岸の中に在り、また交通史的には何れも、横浜までしか開通していなかった鉄道という足を、近年になって得た地域である。その2つの要素を共有する地域である逗子から国府津までが、実際の距離を越えひとつの大きな地域感覚となっていった可能性が高いのである。


● 
藤沢の海水浴場

 
片瀬・鵠沼の海水浴
 鉄道が開通し、梼龍館を開業した大磯は繁栄を極めた。しかしそれは大磯に限られたことではなかったのである。
 藤沢の海水浴場も同様の状況を呈していた。前述したが、藤沢でも海水浴は明治初年から行われていた。富岡に外国人が遊んだように、江の島や片瀬でも外国人による海水浴は、明治5(1872)には確認されており、
明治12年(1879)ベルツによって、片瀬は海水浴に適した地域として内務省に紹介されている。内務省の指導による海水浴場開設には至らなかったが、その後を知る人の話として、「明治16年--その頃は本村と江の島とで四百戸ぐらいの静かな片瀬村に、暁星学校の教職員が来て水泳をはじめた。 フランス人が主で、アメリカ人、それに日本人も二人まじっての一行であったが、異人は妙なことをすると村人達は笑って見てゐたものである。」
と、既に明治16年(1883)には、外国人と共に日本人が片瀬で水泳を行なっていたとしている。また横浜居留地の遊歩地域内に在る江の島は、観光地として魅力あふれる地であり、実際外国人の来遊先として人気は高かったようである。 
 『藤沢医史』によると、鵠沼海水浴場の開設には、藤沢在住の医師・三留栄三が大きな役割を果たしたようである。 ところで鵠沼海岸に海水浴場が開設されるに当たって尽力し、その恩人とも言うべき彼は医師として海水浴の効能に共鳴し、地元の人々を説得して明治19年(1886)7月29日に鵠沼海水浴場の開設に漕ぎつけました。ところが開場式の当日、式場で祝盃をあげて初泳ぎに海に入ったところ、心臓麻蝉で死亡してしまいました。海水浴場開設の功労者が図らずも海水浴水難の第一号となってしまったことを「藤沢医史」は伝えています。37才でした。三留医師は開業医で龍口寺付近に住んでおり、海が荒れて舟をだせないような日`には禅一つで江の島へ泳いで渡って往診したといいます。夏になると数百万人が海水浴に押しかける現在の片瀬・鵠沼海岸を思うとき、百年まえに命まで落とした先人の苦労があったことをしのぶのも、あながち無駄ではなかろうと考ます。
 鵠沼海岸に海水浴場が開設されるたのは、明治19年(1886)で、1887年か遅くも翌年には、鵠沼の旅館「鵠沼館」が建てられたと考えられている。しかし海水浴場としては、鵠沼より片瀬の方が先発していると考えてよさそうである。前述の大磯海水浴場の開設を紹介する新聞記事にも片瀬の名は挙げられており、片瀬海水浴場を紹介する記事が掲載されている。記事からは片瀬が遠浅で安全な海水浴場であることと、複数の宿屋が存在していることが確認できる。また、『読売新聞』には 「今度横浜の或る紳士が発起にて相州高坐郡鵠沼村凡そ八十町歩ほどの処に海水浴を設けんとの計画ある由なるが同所ハ海浜にて塩浜にも適当なりとの事」と、既に前年に開設されている鵠沼においての、新たな海水浴場開設計画を報じていることから、鵠沼海水浴場が賑わっていたことが推測できるのである。

 大磯、藤沢、鎌倉、海水浴場

 
では、大磯と鎌倉・藤沢との差異はどこにあったのか。大磯が海水浴場に適していると松本順が判断した要因の一つは、松本の著書『蘭躊自伝』に「波撃は強力に進み登りて、退去に力少なく、その人を排撃すること、すこぶる強きを好しとす。」とあるように、その波の荒さにあった。これは医療行為としての海水浴導入期に特徴的な海浜条件であった。内務省で出された明治14年(1881)年の「海水浴説」においても、海水浴場選択の基準として海水波動の強弱をあげ、「海潮ノ乾満甚シクシテ波動ノ強キ処ハ亦他ノ波動ノ弱キ処二比スレハ海水浴ノ効力大二優レリトス此理二拠ルトキ八本邦東西ノ海浜若クハ近海ノ孤島二於テハ海水浴ノ効用内海ヨリモ偉ナルヘシ然レトモ虚弱ナル人ハ内海ノ浴場ヲ取ルヲ良シトス」と記し、海浜条件のみでは、小笠原諸島を好適地として例示しているほどである。大磯はその波の荒さが医療行為としての海水浴場の選択基準に適していたのである。 これに対して、前述の明治20年(1887)に「読売新聞』に掲載された片瀬海水浴場の海浜の様子は、「海中に一二町行くも水深からず底に凸凹なきゆえ泳ぎを知らぬ者にも危なげなし」というものだった。鵠沼海水浴場は、1892年発行の『全国鉄道名所案内』に細項目として以下のように紹介されている。
  「鵠沼海水浴場は藤沢停車場を距る二十余町の海浜に在り浜は一面の砂地にして稚松処々に生じ岸は遠浅にして水漬く波静かなれば婦女子の水浴を取るには最も適当にして少しも危険の恐なし此地紳士紳商の別荘の他に待潮館、鵠招館二軒の旅亭ありて東に江之島を軒の内に望み前は渺茫たる太平洋に面し風景稍や賞するに足る」
片瀬も鵠沼も共に遠浅で、片瀬は泳げない者にも危険がないという記述から、婦女子の水浴に最適とされた鵠沼同様、波が静かな穏やかな海水浴場であったことがわかる。
 さらに、鎌倉は、明治21年(1888)8月16日の「相州の海水浴」と題する記事に、「鎌倉を大磯、鵠沼に比し其勝る所二点あり日く名所旧蹟多くして探遊に倦まさる一なり日く其海浜も大磯、鵠沼の如く大洋に直対せず湾曲せるが故に潮流の激勢も稍や軽く且大磯の如く岩石の海底ならずして遠浅なれば危険の憂少なき二なり」
と、波が静かであるという鵠沼と比べても、更に穏やかな波であると記している。波が強くないことが宣伝材料になるということは、海水浴が医療目的からレジャー性の高い避暑・保養目的へと既に変容していたことを示している。
この波の違いが、大磯と藤沢・鎌倉の海水浴場との差異の1つである。 
 つぎに、上記史料でも述べられている「名所旧蹟」の存在である。鵠沼は「古い鵠沼村から片瀬にかけての海寄りの地区は、明治半ばまでほとんど利用価値のない草地」であったとされ、また海水浴場紹介記事に「稚松」ということぱがあることからも、そこが開発されて間もない地域であったことがわかる。しかし近隣には、南朝との関わりの由緒をもつ遊行寺や、日蓮伝説の龍口寺などの旧蹟が点在し、そして何より鵠沼・片瀬は、旧来から来遊の多い一流の観光地である江の島を「軒の内に望」むという最高のロケーションに位置する地域なのである。鎌倉は説明するに及ぱないだろう。
 それに比して大磯はどうか。「全国鉄道名所案内』によれば、「鴫立沢」が細項目としてわずかに解説されているのみで、あとは海水浴一色の解説になっている。松本順が大磯を見出した時、同村は経済的に大変疲弊していたという記述からも、大磯に大きな観光ポイントとなるべき名所旧蹟はほとんど存在していなかったと考えられる。前述の記事を読み替えれば、大磯には旅行者が時間を持て余すという問題点が生じているということなのである。 この2つの要素は、結局のところ世俗的な世界を招き、海水浴の大衆化という方向へとつながっている。穏やかな波で静かに避暑を楽しむ保養者への憧憬が、同様の海水浴を求める観光客の殺到を生んだのである、また名所旧蹟を歩くことは、それ自体が観光客の旅行の大きな目的となっていた。 しかもその一方で、皇太后をはじめとして、江の島には皇室の行啓がたびたび行なわれていた。
明治23年(1890)4月29日の『読売新聞』には、
  皇太子殿下八一昨廿七日午前七時三十分御出門同八時新橋発の汽車にて江の島鎌倉辺へ行啓遊ばされ午後三時世分鎌倉御出発にて午後五時四十分遣御あらせられしよしと、皇太子の行啓のスケジュールを報じている。また海水浴ブーム直前の1884年に宮内省直轄の官立学校となった学習院は、1891年には例年両国に設けていた遊泳所を廃止し、江の島海浜遊泳へと切り替えた。
また明治28年(1895)1月7日の『読売新聞』には、
  東京予備病院長松島玄景氏八一昨十五日出発所属杉江一等軍吏を随へ神奈川県鵠沼地方へ出張せしが右ハ戦地よりの送還患者にして転地療養を要するものの為に療養所設置踏査の用向にて遂に鵠沼館を利用する事となれり といふ
と日清戦争による傷病兵の転地療養所に鵠沼の鵠沼館を利用することになり、陸軍の患者を迎えた鵠沼の有志等は、「来る十六日を以て同館前に数十本の畑花を打揚げ且撃剣会を催すと聞く」と、同年4月4日の『読売新聞』が報じているように、趣向を凝らして患者を激励している。これらの藤沢と取り巻く環境は、藤沢を一気に庶民のものにすることなく、保養や高貴といった要素をも持たせることになったのである。

 
海水浴と湘南

湘南が海水浴の発展に果たした役割は、医療行為として導入された海水浴に、レジャーとしての側面をもたせたこと、そして点ではなく線的・面的な発展となった海水浴場の集中が、広い地域において海岸を海水浴という行為に染めていったことによる、海水浴の伝道効果とその大衆化への強い力となったと考えられるだろう。 湘南は、海水浴に当初高級な避暑としての性格を持たせた。それはまた相乗的に湘南という地域の上流階級的色合いを高めることになった。また鉄道の開通とともに広がった海水浴場は、この地を外から見る人々に、鉄道沿線と相模湾沿岸という地理的共通項を持つ地域に対して、湘南というひとつの大きな地域感覚を持たせることになった。のちに、湘南に「湘南らしさ」というイメージを付与された時、湘南という地域認識は、逗子から国府津にまで広がっていった。海水浴場によるひとつの大きな地域感覚は、湘南の範囲を確定する素地を形成していたのである。

                          
「湘南の誕生」 編者「湘南の誕生」研究会 藤沢教育委員会発行より


明治18年(1885)に大磯照ケ崎海岸で、翌19年(1886)には鵠沼海岸でと明治20年(1888)頃に湘南の海岸では一斉に海水浴場が開かれたのは、その頃に文明開化の意識革命が庶民にまで浸透してきたことを物語っているのではないでしょうか。

海開き

「海開き」と言われている行事は「海水浴場開き」が本来の意味でしょうが、「山開き」や「川開き」に倣って使われるようになったものと考えられます。昭和4年に片瀬海岸に海水浴場組合が誕生していますからこの頃から海水浴場開きが本格的に行われるようになったのではないでしょうか。
 湘南の夏は「海開き」に始まるといってもいいでしょう。 藤沢片瀬海岸、茅ヶ崎、平塚、二宮海岸では7月1日,大磯の海水浴場開きは7月の第一日曜日に行われるのが恒例となっていますが、この海開きのセレモニーを藤沢で見てみますと先ず神事があり、次いで市長と水着姿のミス湘南江の島がくす玉割りをし、レスキュー隊がデモンストレーションを行うといった按配となっています。昔はミスの代わりに芸者が出てきたようです。
大磯の海水浴場開きは、『松本順の碑の前で黙祷後,北浜海岸に移動海での安全を祈念して、神事があり,町長、松本順のご子孫などの安全祈願行われ、大磯町長の挨拶、 来賓の挨拶などがあり、最後にお神輿が海岸を練り歩き海開きを盛り上げます。

湘南海岸一体の海水浴場の賑わいは、8月末の2ヶ月間で終焉します。

                                                                                                                  2005年10月



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