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かいぞうじ)〈臨済宗(りんざぃしゅぅ)〉 |
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横須賀線のガードの前をまっすぐ約450mごで海蔵寺。葛原ガ岡を背にした谷戸の奥にある。
寺の入口の右に鎌倉十井のひとつ「底脱の井」がある。
「底脱の井」を右に見て山門をくぐると、花木が茂る清楚な境内かおり、正面に本堂、左に安永5年(1776)に浄智寺から移築した仏殿が建っている。
水仙・梅・椿・ツツジ・萩など、四季の花が美しい。また南側にある十六の井もぜひ訪ねたい。
むかし上杉家の尼が、この井戸水を汲んで投棄した歌「賤の女が戴く桶の底ぬけて、ひた身にかかる有明の月」に由来して井戸の名がついたという。
海蔵寺は、緑深い谷戸に佇む水と花の古寺、紅葉の名所としても知られる。
寺は応永元年(1394)に、上杉氏定か足利氏満の命を奉じて建立したと寺伝する。もと真言宗であったが、いまは臨済宗の建長寺派。開山は源翁和尚(心昭、1329〜1400年)ともいう。源翁は曹洞宗の僧で、下野(栃木県)那須野の殺生石を杖で一打のもとに割り、石中の悪霊を除いたとの伝えで名高い。
往時は10の塔頭があったという。薬師堂には本尊薬師三尊像を安置する。薬師堂奥には16の穴が穿たれ絶えず清水が湧く十六の井がある。 |
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住所 |
鎌倉市扇が谷4−18−8 |
電話 |
0467-22-3175 |
拝観料 |
有料 |
拝観時間 |
9時30分〜16時 |
アクセス |
JR鎌倉駅西口から徒歩20分 |
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海蔵寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】 |
宗派 |
臨済宗建長寺派 |
山号寺号 |
扇谷山海蔵寺 |
創建 |
1394(応永元年) |
開山 |
心昭空外 |
開基 |
上杉氏定 |
本尊 |
薬師如来 |
寺宝 |
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嘉元4年(1306)銘の阿弥陀三尊来迎図板碑、木造の大形古位牌。本堂には、狩野探信筆による雲龍・山水の図、藤原義信筆による牡丹唐獅子図がある。
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山門は1468(応仁2)年の建立と伝える。境内には、本堂・仏殿・鐘楼・庫裡などが建ちならぶ。本堂背後の庭園は谷の織りなす自然を借景にし、山間より湧き出る水をたたえた心字池の水面は周囲を映しておだやかである。
仏殿は1777(安永六)年に浄智寺より移築したものといい、本尊の薬師如来に日光・月光の二菩薩を配した〈薬師三尊像〉、薬師如来の眷属(つき従う者)の十二神将像(移築後の造立)などが安置されている。
本尊の薬師如来は、〈啼薬師(なきやくし〉〈児護薬師(こもりやくし)ともいわれる。
本寺開創のとき、寺の背後の山から毎夜子供の泣き声が聞こえてきたという。開山の和尚が子供を探したが見つからず、泣き声のするあたりで経を読み、着ていた法衣を脱いで置いたところ、泣き声はやんだという。翌日その場所を掘ってみると、薬師如来の頭部が出てきたと伝える。
和尚は、新たに薬師如来像を追って、この頭部を胎内に納めて供養したのであった。
胎内像は、61年目ごとに開帳されることになっているという。啼薬師の伝承をもつ本寺は、1394(応永一)年、上杉氏定を開基として創建されたと伝える。
氏定は、扇ガ谷に住した上杉家(扇が谷上杉)の養子で、1416(応永23)年の上杉禅秀の乱で自害している。
本寺には、有名な十六の井は仏殿のわきから左へ50mも行った岩穴にある。拝観は他の宝物同様、お寺の許可が必要である。洞窟の壁面中央に文政6年(1823)奉安した石像の観音像をまつり、その下方に弘法大師像を安置している。井戸の名は、底に経50cmくらいの丸穴が四列ずつならび水をたたえているのでつけられた。考古学上では、ふつう鎌倉期様式のやぐらで、丸穴もおそらく他のやぐらと同じく納骨穴であろうといわれる。が、寺伝では、大穴の十六という数は十六菩薩つまり金剛菩薩を表現したもので、穴の清水は功徳水であること、したがって窟はやぐらではなく功徳水をもって庶民に施した霊場であるとする。
ところで、この窟の奥壁には板碑(いたび)がはめこまれていた。嘉元4年(1306)8月の年紀をもち、阿弥陀三尊像をきざむ有名な板碑で、三尊とも雲上にうかぶ蓮座上にたち、光明を放つ来迎相につくられている。鎌倉市の文化財である。 |
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(やくおうじ)(日蓮宗) |
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本堂・開山堂・鐘楼などが建ち、徳川二代将軍秀志の子、忠長(ただなが) 開山は、日蓮宗をはじめて京都に布教した日像(1269〜1342)と伝える。
大乗山薬王寺はもとは真言宗に属し、梅嶺山夜光寺(ばいれいざんやこうじ)と称していた。
しかし、1293(永仁元年))日像上人がこの寺に逗留した折、住職と宗教論議に及び数日間の論争の末、日蓮宗に改宗され大乗山薬王寺となった。 |
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住所 |
鎌倉市扇が谷3−5−1 |
電話 |
0467-22-3749 |
拝観料 |
無料 |
拝観時間 |
特になし |
アクセス |
JR鎌倉駅西口から徒歩15分 |
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薬王寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】 |
宗派 |
日蓮宗 |
山号寺号 |
大乗山薬王寺 |
創建 |
1293(永仁元年) |
開山 |
日像上人(中興開山・日達上人) |
開基 |
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本尊 |
久遠本師釈迦牟尼仏(くおんほんししゃかむにぶつ) |
寺宝 |
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宗祖真筆本尊、日朗聖人真筆本尊、日像聖人真筆本尊、池上十五世日友上人本尊、本国寺了義院日達上人本尊。他に什宝として閻浮檀金釋迦如来像がある。下関赤間ケ渕の海中から出現したと伝えられる金像で、日達上人を崇拝した領主原田氏から寄進された。646年、唐で作られた高さ18センチの金銅製。白鳳初期作の観世音菩薩像、鎌倉時代の南無仏大子像、開山日像上人像、釈迦牟尼像、狩野探幽筆の三宝尊などがある。 |
徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長が高崎で自刃。妻の松孝院殿はこの寺に供養塔を建立し、永代追善菩提のために多額の金子と広い土地を寄進した。3000坪の境内には五重塔や諸堂が建てられたが、1720(享保5年)の火災で焼失した。
江戸時代、薬王寺は徳川家と縁が深く、寺紋にも三葉葵が用いられた。そのため、町人の埋葬は許されない格式高い寺であった。
明治時代に入ると廃仏毀釈のため寺は荒廃、無住の時代が50年以上つづいた。1914(大正3年)第50世日振上人が復興に着手し、第五十一世日照上人と二代70年にわたる努力の末、複興がなった。
関東大震災にも耐え抜いた1727(享保12年)建立の本堂中央には日蓮上人像がまつられている。1834(天保5年)将軍家なり斉の命により幕府が施主となり建立したもので、高さ93センチ、坐像では宗門三指の大きさである。目を開いた珍しい像で、布教法話の姿であり、裸像上半身にまとうのは実物の法衣袈裟で、毎年6月・10月1日に更衣式を行う。 |
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