湘南の古都鎌倉
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湘南の古都 鎌倉
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鎌倉散策道【長谷寺・光則寺】
長谷寺
(はせでら)〈長谷観音、単立寺院〉

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 観音山の中腹に堂宇を並べる浄土宗の古刹。坂東三十三観音第4番札所としても知られ、門前町もにぎやかである。
 総門をくぐると左に大黒堂、右に池があり、その奥に弁天堂と弁天窟がある。石段を登ると地蔵堂かあり、その前に無数の水子地蔵が並んでいる。さらに石段を登ると平地に出て、鐘楼・阿弥陀堂・観音堂(本堂)・宝物館と並び、南端に輪蔵と茶店の海光庵があり、由比ガ浜から材木座方面が一望になる。境内には高山樗牛居住跡碑・高浜虚子句碑・久米正雄胸像などもある。
 大仏の鎮座する高徳院と並んで、長谷の名所である長谷寺は、木造では日本最大級(9.18メートル)の十一面観世菩薩像で知られる。
 眼下に鎌倉の海が光る勝景の地に、長谷寺はある。
 「海光山(かいこうざん)」という山号が示す通り見晴台からは陽光にきらめく由比が浜の海はもちろん、遠くは三浦半島まで一望できる。
 さらに境内には、春はボタン、モクレン、サクラ、フジ、夏はアジサイ、ハナショウブ、サルスベリ、フヨウといった四季折々の草花が咲き乱れ、訪れる人々の目を楽しませてくれる。特に夏の6月〜7月の30数種類の品種のアジサイが咲きほころび、花のころになると人の波に圧倒する。
 毎年8月10日の四万六千日詣や12月18日の歳の市には、市の内外よりたくさんの参拝客が訪れる。
住所 鎌倉市長谷3−11−2
電話  0467-22-6300
拝観料 有料
拝観時間  8時〜17時(夏期)、8時〜16時30分(冬期)、宝物館9時〜16時(臨時休館あり)
アクセス  江ノ電長谷駅より徒歩5分
長谷寺・寺史  : :【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派   浄土宗(単立)
山号寺号  海光山慈照院長谷寺
創建   736(天平8年)
開山  徳道上人
開基    藤原房前
本尊 11面観世音菩薩
寺宝
 銅造十一面観音感仏(六面)及び、銅造梵鐘(1264(文永元年)作)は国の重文。その他、県指定の文化財である紙本著色長谷寺縁起絵巻や銅造鰐口、市指定文化財の観音三十三応現身立像などは寺内宝物館に展示・収蔵されている。
 草創は遠く736(天平8)年にさかのぼるといい、733(天平5)年に創建された奈良の長谷寺と同じ開基・開山をいただく。開基は聖武天皇に仕えて信頼の厚かった藤原房前、開山は徳道上人である。
 本尊の十一面観音像も、同一木からそれぞれクスノキの霊木より彫像されたものと伝える。一体は奈良長谷寺の本尊とし、他の一体は縁ある地に迎えられることを願って海中に投ぜられたという。三浦長井の浜に漂着した像は鎌倉に移され、〈新長谷寺〉を創建して安置されたという伝えをもつ。本寺の開創年代はいまだ明らかではないが、1264(文永元)年銘の梵鐘が伝えられて「新長谷寺」とあることから、それ以前の成立であろうとされている。
 その後は、足利尊氏による本堂の再建をはじめとした室町幕府の将軍による修築や諸仏の修理、豊臣秀吉や徳川幕府による庇護・寄進などもなされている。
 本尊の十一面観音立像は9.18メートルをこす巨像で、右手に錫杖を持ち、左手には蓮の花の入った水瓶を持つ、長谷寺式といわれる観音像である。
 観音菩薩は観世音菩薩とも称され、サンスクリット語では観察することに自在な、という意という。
 慈悲ど救済の菩薩で、人々の求めに応じて種々に姿を変えるとされる。11面観音は11の顔を持ってあらゆる方向に顔を向け、多くの人々を救済する能力をもつ観音といわれる。
 本寺の本尊に対する信仰も古くから盛んで、とくに1677(延宝5)年の大規模な復興は、すべて庶民の厚い観音信仰に支えられて成就したという。
 今も坂東三十三所観音霊場、鎌倉三十三所観音霊場のいずれも第四番札所として、巡拝される方々が多い。
 境内には、本尊を安置する観音堂をはじめ、大黒堂、弁天堂、一切経を納めた書架が回転する輪堂(輪蔵ともいう)、宝物館などがある。
 宝物館には、1326(嘉暦元)年に造られた懸仏、1264(文永元)年の梵鐘、1413(応永20)年の鰐口など、多くの寺宝が常設展示されている。
 なかでも、懸仏は、六面も伝えられている。神社の神体である鏡に、その神体の本来の姿である仏・菩薩がその正体を現出したさまを表現しているものを〈御正体〉という。御正体のうち、円形の銅板・鉄板・木板を鏡面に見たて、その鏡面上に半肉彫りや丸彫りの仏像などを取りつけ、仏殿や神殿に懸け吊るすようにしたものを、〈懸仏〉という。神仏習合の表現として鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造られた。 
長谷寺ホームページ
光則寺 (こうそくじ)〈日蓮宗〉

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 長谷寺の北どなりの谷の、ゆるやかに上る長い参道を歩むと光則寺である。池を配した境内は四季折々の花にいろどられ、ことに四月上旬、本堂前の海常は、桜と呼応して咲き競う。しかし、この花の寺にも激動の中世鎌倉の歴史が秘められている。開基は鎌倉幕府第五代執権の北条時頼の重臣であった宿谷光則、開山は日蔭の高弟である日朗と伝える。寺地は光則の邸宅跡だという。
住所 鎌倉市長谷3−9−7
電話  0467-22-2077
拝観時間  7時〜日没
アクセス  江ノ電長谷駅より徒歩6分
光則寺・寺史  :  【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派  日蓮宗
山号寺号  行時山光則寺(ぎょうじさんこうそくじ)
創建   1274(文永11年)
開山   日朗上人
開基    宿谷光則
寺宝
  1661(万治4年)銘の木造日蓮上人坐像、1673(寛文12年)伝日朗入牢七人衆像、 1844(天保15)年 大梅院尼坐像など。大梅院日進は江戸時代、寺の再建に尽力した。
 1253(建長5)年、鎌倉松葉ガ谷に小庵を結んだ日蓮は、『法華経』の教えを説き広めていた。
 当時の鎌倉は、天変地異が続き、深刻な社会不安の中にあった。日蓮はその原因を、正しい教えである『法華経』を捨てたためであるとし、1260(文応1)年に『立正安国論』を著して、念仏などの禁止と『法華経』 への帰依を幕府に訴えか。この書は宿谷光則を経て、北条時頼に差しだされたという。
 しかしこれは受け入れられず、翌年、幕府に捕えられ伊豆流罪となった。
 その後許されて鎌倉にもどった日蓮は、『立正安国論』の趣旨を徹底すべく再度幕府にせまり、1271(文永8)年、捕えられて竜口で斬首されることになったが、あやうくまぬかれて佐渡へと流罪となった(竜口の法難)。日朗らの門弟にも厳しい弾圧が加えられ、宿谷光則にあずけられて土牢に幽閉された。境内奥の山腹には、そのときの土牢が伝えられている。その間に光則は日蓮に帰依するようになり、屋敷を寺となして、みずからの名を寺号にしたという。
開山の日朗(1245〜1320)は、幼くして日蓮の門に入り、師に従って辛苦を共にした高僧である、妙本寺を創建して、日蓮没後の教団を統率し、また弟子の育成にも尽力して多くのすぐれた人材を輩出した。
 以後、日朗の門流は全国的に大きく展開していったのである。
 境内の裏山には、日蓮宗が弾圧された際、日朗が幽閉された土牢が今も残る。
かたわらには、佐渡流罪の前夜、日蓮が日朗に送ったといわれる手紙「土龍御書」の石碑が立っている。
 初春の梅にはじまり、門前の枝垂れ桜、カイドウ、ハングショウ、シュウカイドウ、紅葉などの他、季節の山野草が境内のいたるところに彩りを添える。光則寺制作の花マップもあり、花散歩に便利。 
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