湘南の古都鎌倉
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最終更新日 2024:10:01 湘南の天気予報 只今の時間  2024年10月06日(日)07時01分

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鎌倉散策道【光明寺・補陀洛寺】   
光明寺
(こうみょうじ)〈浄土宗〉

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 材木座海岸を見下ろす天照山の麗に壮大な伽藍を並べている浄土宗の大本山。 総門からまっすぐ参道がのび、正面に壮大な山門がそびえ、その両側に支院の千手院と蓮乗院がかわら甍をのぞかせている。広々とした境内の正面には17間四方の本堂、左に開山堂・書院・本坊などが建ち、大寺の風格にあふれている。
 本堂北側の記主庭園、南側の三尊五祖来迎の庭という趣の異なる庭園が拝観できる。桜・サツキ・蓮が咲<シーズンに訪ねたい。また本堂の真裏の坂道を登って、市立一中の前から伽藍の向こうに海木が美しい。 
 鎌倉の海を前方に、天照山を背にした寺域は明るく広い。かつて関東十八檀林の筆頭としての寺格を誇る。〈関東十八檀林〉とは、江戸幕府によって定められた、浄土宗僧侶の研究・教育機関としての一八ヵ寺のことである。
 天照山蓮華院光明寺(てんしょうざんれんげいんこうみょうじ)は1243(寛元元年)の創建と伝えられる。
 鎌倉三十三観音第十八番如意輪観世音、鎌倉二十四地蔵尊第二十二番延命地蔵尊の霊場。
 鎌倉幕府の第四代執権北条経時(1224〜1246)は鎌倉幕府の第四代執権が 然阿良忠(ねんありょうちゅ)(記主禅師)を迎えて、1243(寛元1)年に創建された浄土宗の大本山である。
 開山の良忠は浄土宗創始者法然の直弟子・聖光から教えを受けた浄土宗第三祖。良忠が幕府のあった鎌倉に住んだことで浄土宗が関東以北へ拡がったといわれている。
 また一説に、北条氏の一族、大仏朝直(1206〜1264)が良忠に深く帰依し、佐介ガ谷に〈悟真寺〉を建てて良忠を迎え、ついで〈蓮華寺〉と改称し、さらに〈光明寺〉と改めて現在地に移ったとする。
 光明寺は第五代執権時頼以降も歴代執権の帰依を受け、大寺院に発展。念仏道場の中心となる。                
住所 鎌倉市材木座6−17−19
電話  0467-22-0603
拝観料 無料
拝観時間  7時〜16時半(夏期は6時〜)
アクセス  JR鎌倉駅東口より小坪経由逗子駅行バス光明寺下車徒歩1分
光明寺・寺史  :  【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派   浄土宗
山号寺号  天照山蓮華院光明寺
創建   1243(寛元元年)
開山  然阿良忠上人(記主禅師)
開基    北条経時
本尊 阿弥陀如来
寺宝
 本尊の木造阿弥陀如来像(県重文)と脇侍の木造観音・勢至両菩薩像は鎌倉時代前期に彫られた京風仏像。木造記主禅師坐像は室町期の作。 木造如意輪観世音坐像(市文)、正中二年(1325)銘の石造地蔵菩薩坐像など彫刻も数多いが、絵巻を中心とする絵画も充実している。 当麻曼荼羅縁起絵巻二巻(国宝)は鎌倉期の作品で大檀家内藤家から延宝3年(1675)に寄進されたもの。
寛永年間(1624〜1644)の再興という総門を入ると、三門、本堂、開山堂が甍を並べる。
 三門は、1847(弘化4)年に再建されたという、関東地方を代表する大三門である。本堂は1698(元禄11)年建立の入母屋造りの天堂で、本尊の阿弥陀如来像、鎌倉三十三所観音霊場の第十八番札所本尊の如意輪観音像などを安置している。本尊は観音・勢至の両菩薩が脇侍して〈阿弥陀三尊像〉を形成しているが、鎌倉時代前期に彫像された京風のすぐれた作品であるという。
 本堂左右には蓮池と石庭が配され、蓮池のある庭園は小堀遠州の作と伝えられている。遠州は江戸時代前期の茶人・造園家・武将として知られる。蓮の花(蓮華)と仏教とのかかわりは深く、仏典にもしばしばあらわれ、また、仏像の台座としてもっとも尊重される。泥中に生じながら清浄で美しい蓮華は、煩悩を脱した悟りの境地を表現するのにいちばんふさわしい花なのであろう。
 蓮池に而して、記主禅師像(室町時代)をまつる開山堂がある。
 良忠(1199〜1287)は、三〇年近い歳月を東国地方への布教に尽力し、その間に多くの書を著して浄土宗の教学を大成した学僧である。
 江戸時代、徳川家康が浄土宗学問所として関東の主要寺院十八ヵ寺を十八檀林に定め、光明寺は筆頭寺院となる。そのため、各地から多くの学僧たちが集まり、学問と修行の中心としても栄えた。
 また、朝廷との関係も深く、山門に掲げられた「天照山」の扁額は後花園天皇の直筆と伝えられ、(永亨8年1463)12月15日賜」と記されている。明応4年(1495)には後土御門天皇から関東総本山の称号を受け、勅願寺に定められた。 同年、「お十夜法要」が勅許されて以来、現在も盛大に念仏法要が営まれる。
補陀洛寺
(ふだらくじ)〈真言宗〉

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 別名「竜巻寺」といわれる。たびたび竜巻や火災にあったため、寺歴は詳しく分からない。もとは七堂伽藍を持つ大きな寺院であった。1352〜56年(文和年間)に鶴岡ハ幡宮の僧、頼基律師が復興した。 源頼朝が鎌倉に入った翌年の1181(養和元年)、頼朝の祈願所として創建された。
 開山と伝えられる文覚上人はもとは武士で。誤って渡辺渡の妻袈裟御前を殺してしまい、その罪をつぐなうべく出家して熊野の山中で苦行を積んだといわれている。その後、京都神護寺の再興に尽力したが、後白河法皇に荘園の寄進を迫ったことがとがめられ、伊豆に流された。そこで頼朝と出会い親交が始まったといわれる。
 頼朝に、挙兵を進めたという。激動の時代に政界の裏面で暗躍した怪僧として語られることが多い。
住所 鎌倉市材木座6−7−31
電話  0467-22-8559
拝観料 志納
拝観時間  〜17寺
アクセス  JR鎌倉駅東口より海岸橋循環、九品寺循環、小坪経由逗子駅、新逗子駅行きバス材木座下車徒歩2分
補陀洛寺・寺史  :  【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派  真言宗大覚寺派
山号寺号  南向山帰命院補陀洛寺(なんこうざんきみょういんふだらくじ)
創建   1181(養和元年)
開山   文覚上人(伝)
開基    源頼朝(伝)
本尊 十一面観音菩薩
寺宝
 本尊の木造十一面観音菩薩立像をはじめ仏像彫刻は多い。平安時代の作と伝わる木造不動明王像のほ
か、木造薬師如来像及び両脇侍菩薩立像、1377(永和3年)年銘の木造秘鍵大師坐像など。ほかに文覚上人書
とされる源頼朝の位牌や、頼朝自作とされる頼朝像、木遺文覚上人裸形像、平家の赤旗。
 本堂の不動明王像は、平安時代の高僧、智証大師の作とも。平家打倒の祈りが捧げられたとされる。
 本尊は十一面観音像で、鎌倉三十三所観音霊場の第十七番札所本尊でもある。寺宝に、水和3(1377)年銘の秘鍵大師坐像などを伝える。 
 薬師如来像は行基作、日光・月光菩薩は運慶作、地蔵像は弘法大師作、そして特に珍しいとされる。
 平家の赤旗は、1185(文治元年)の平家滅亡の祈、総大将平宗盛が最後まで持っていたものと伝えられている。
 寺名の〈補陀洛〉はサンスクリット語の音を漢字に写したもので、観音菩薩が住む山の名という。
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