湘南の古都鎌倉
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最終更新日 2024:10:01 湘南の天気予報 只今の時間  2024年10月06日(日)06時27分

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鎌倉散策道【円覚寺・東慶寺】
円覚寺
(えんがくじ)〈臨済宗、もと鎌倉五山第二位〉

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 北鎌倉駅の北側の高台、老杉が茂る中にある名刹。石段を登ると総門・山門・仏殿・勅使門・方丈が一直線に並び、両側高みに塔頭(たっちゅう)を従えて、禅寺ならではの張り詰めた空気が漂っている。創建時とは規模も建物も異なるものの、鎌倉五山の2イ立に列せられた風格は衰えていない。 総門→桂昌庵→山門→仏殿→勅使門→百観音→方丈庭園→正続院前→仏日庵(ぶつにちあん)→白鹿洞(はくろくどう)→黄梅院(おうばいいん)と歩いてUターン、帰りに仏殿の南側にある石段を登って洪鐘を訪ね、茶店で展望を楽しむのが一般的な順路。
 鎌倉五山第二位の円覚寺は、臨済宗円覚寺派の総本山。約六万平方メートルに及ぶ寺域全体が史跡に指定されている。
 寺域の山ノ内は鎌倉時代は山内荘と呼ばれ、現在の大船から横浜市戸塚区の一部を含む広い地域であった。
 北条義時がこの地を所領にしたため、山ノ内には北条氏の建てた寺が多い。建長寺は鎌倉幕府ハ代執権の時宗の父・時頼(五代執権)が建立した。東慶寺、浄智寺、明月院も北条家ゆかりの寺である。
 大寺山内(さんない)にある小寺院、すなわち子院を意味するようになった。往時には40余の塔頭(たっちゅう)があったというが、現在でも18の塔頭を数えるという。広い寺域に点在する塔頭で拝観できるのは、開基、北条時宗(ほうじょぅときむ)の廟所(びょぅしょ)で、鎌倉三十三所観音霊場(かんのんれいじょぅ)の第三十三番札所の仏日庵(ぶつにちあん)、夢窓疎石(むそうそせき)の塔所(墓所)として建立された黄梅院(おうばいん)などで、少ない。
 参道から外れた鐘楼には、1301(正安3年)、九代執権の北条貞時が寄進した洪鐘がある。建長寺、常楽寺の鐘とともに鎌倉三名鐘のひとつで、国宝に指定されている。
 壮大な伽藍と数々の寺宝を持つ円覚寺は創建当時の精神のままに、僧たちが日夜厳しいつとめに明け暮れる禅の修行場である。
住所 鎌倉市山ノ内409
電話  0467-22-0478
拝観料 有料
拝観時間  8時〜17時(11月〜3月は16時まで)
アクセス  JR北鎌倉から徒歩1分
円覚寺・寺史 :  【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派   臨済宗円覚寺派
山号寺号  瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)
創建   1282(弘安5年)
開山  無学祖元(仏光国師)
開基    北条時宗
本尊 宝冠釈迦如来
寺宝
  本尊の木造宝冠釈迦如来像の頭部は鎌倉時代、胴部は江戸時代の作。木造仏光国師坐像は頂相彫刻の秀作で鎌倉時代の作。銅造阿弥陀三尊立像は文永8年(1271)の銘がある。
 絵画には1284年作の自賛仏光国師像や鎌倉時代に描かれた仏涅槃図、宋代の五百羅漢図三十三幅など。
 工芸では開山が用いた木印二個、宋代の青磁香炉など多数。他に開山や開基の書状など古文書類も膨大な量に及ぶ。11月3日前後に毎年行われる宝物風入れの折に、多くの寺宝が拝観できる。
 鎌倉幕府第ハ代執権の北条時宗を開基、無学祖元を開山にして、1282(弘安5)年に円覚寺は創建された。
山号は(瑞鹿山)。
 開基の時宗(1251〜1284)は、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で元軍の来襲(元寇)を撃退した執権で、禅に深く帰依していた。
 二度にわたる元との戦いで死んだ兵士たちの菩提を弔うため、かねてより崇敬していた宋の禅僧・無学祖元(仏光国師1226〜1284)、1279(弘安二)年に請われて来日し、蘭渓道隆の寂後の建長寺に住した。
 時宗は祖元について参禅し、文永・弘安の両役で戦没した霊を弔い、禅を広めるため寺院の建立を発願し、祖元を開山に迎えて円覚寺が開創された。
 「開基」と「開山」の違いは、前者が寺院創設の経済基盤を提供した在家信者、後者が創設された寺院の初代住持となった僧、とする場合が多い。
 寺名の由来は起工の際、地中から「円覚経」を納めた石櫃が掘り出されたことによる。創建初期の伽藍は仏殿・僧堂・庫裡があるだけだった円覚寺も鎌倉幕府の祈願所に定められてからは土地や建物の寄進を受け、次第に大きな寺に育っていった。
 一方、大火や震災にも度々遭遇したが、北条氏によってその都度復興されてきた。
 1333(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻略で北条氏一族は東勝寺で自刃。鎌倉幕府は滅びる。
 寺域の外郭に設けられた門を禅宗では惣門(総門とも書く)というが、円覚寺惣門を入ると鬱蒼とした樹間に、三門・仏殿・方丈が縦一列して配置されている。何度もの大火にあって創建時の姿は知りえないが、それでも往昔の伽藍配置(がらんはいち)の面影を今に伝えている。三門(山門)は1783(天明3)年ごろの再建とされ、上層には十六羅漢像などが安置されている。
 「三門」は三解脱門の略で、仏殿を解脱(涅槃・悟りの境地)にたとえて、そこに到るために通らねばならない門という。
 仏殿は1964(昭和39)年の再建で、本尊は宝冠釈迦如来(ほうかんしゃかにょらい)である。如来像は、大日如来を除いて一般には宝冠や瓔珞などの装身具で身を飾る(仏教では「荘厳」という)ことはないが、本寺本尊の釈迦如来は宝冠で荘厳された如来像なのである。この尊像は頭部のみが鎌倉時代の作で、他は江戸時代以降の補修であるという。
 円覚寺には、他に多く例を見ない二つの建物、選仏場と居士林がある。選仏場(1699年)は、仏(真理を悟った人)を選びだす道場の意という。
 坐禅修行によって悟りに到らしめる場ということであろうか。居士林は在家信者のための坐禅道場で、土日坐禅会・学生坐禅会がおこなわれている。
 境内は山門、仏殿、方丈などがほぼ直線上に並ぶ典型的な宋の禅寺様式。その多くは室町時代から江戸時代にかけて再建されているが伽藍配置は創建当時に近い。
 山門は1783(天明3年)に再建された。伏見上皇勅筆の円覚興聖禅寺の額がかかっている。
 仏殿は昭和39年(1964)に再建された。本尊の宝冠釈迦如来像をまつり、天井には日本画家前田青邨 監修、守屋多々志揮毫の白龍の図がある。仏殿の左手の居士林(こじりん)は在家のための坐禅道場で、そ建物は柳生流の剣道場を移築したもの。方丈を右に見て、夢窓国師の築造した名勝妙香池を過ぎると、円覚寺の塔頭のひとつ仏日庵がある。ここは北条時宗の廟所として創建され、子の貞時らがまつられている。
 正続院に建つのが国宝舎利殿で、鎌倉尼五山第一位だった太平寺(廃寺)の仏殿を移築したものという。
 源実朝が宋から請来した仏舎利が安置され、円覚寺の伽藍のなかでは最も古い、唐様式の美しい建物である。
 参道から外れた鐘楼には、1301(正安3年)、九代執権の北条貞時が寄進した洪鐘がある。建長寺、常楽寺の鐘とともに鎌倉三名鐘のひとつで、国宝に指定されている。
 壮大な伽藍と数々の寺宝を持つ円覚寺は創建当時の精神のままに、僧たちが日夜厳しいつとめに明け暮れる禅の修行場である。
東慶寺 (とうけいじ)〈駆込寺(かけこみでら)、臨済宗〉

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 円覚寺と道路をへだてた斜め向かいに東慶寺はある。かつて尼寺であった雰囲気が今に伝わるような、参道からの景観である。
 ”駆け込み寺”とか”縁切り寺”と呼ばれた古刹。今は松ガ岡の縁の中に梅・水仙・木蓮・ボタン・菖蒲・アジサイ・萩などが咲き続く”花の寺”として知られ、訪れる人が絶えない。石段の上の質素な山門をくぐると石畳の参道がのびており、その右手に庫裏・書院・泰平殿・水月堂・松ガ岡宝蔵などが並んでいる。 三年修行すれば離縁できる「縁切寺法」で多くの女性を救った。その様子は、「出雲にて結び鎌倉にてほどき」「くやしくば尋ね来てみよ松ケ岡」など東慶寺を詠んだ多くの川柳にもうかがえる。
住所 鎌倉市山ノ内1367
電話  0467-22-1633
拝観時間  8時30分〜16時(冬期)8時30分〜17時(夏期)、松ヶ岡宝蔵10時〜15時/月曜日休み
水月観音の拝観は予約が必要です。電話若しくは往復葉書。
アクセス  JR北鎌倉駅より徒歩3分
東慶寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派  臨済宗円覚寺派
山号寺号   松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ)
創建   1285(弘安8年)
開山   覚山志道尼(かくざんしどうに)
開基    北条貞時
本尊 釈迦如来
寺宝
 本尊木造釈迦如来坐像は室町期の作。木造聖観音菩薩立像(国重文)はやはり尼寺の太平寺(廃寺)の本尊だったといわれる。像に施された「土紋」は巧み。木造水月観音半跏像(県重文)、木造聖徳太子立像、木造地蔵菩薩坐像、木造覚山尼坐像も知られる。室町時代の香炉・初音蒔絵火取母(はつねまきえひとりも)(国重文)、キリシタン遺物・葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(国重文)など工芸品にも優品が多い。補陀洛寺旧蔵の1350年銘の梵鐘や、天秀尼が父秀頼の菩提を弔うために造らせたという銅造雲版も貴重。縁切関係の古文書を主とした東慶寺文書が平成13年4月、国の重要文化財に指定された。
 第九代執権の北条貞時を開基、覚山尼を開山として、1285(弘安8)年に創建されたという。
 開山の覚山尼(1252〜1306)は、円覚寺開基の北条時宗夫人で、貞時(1271〜1311)の母である。
 五世住持は後醍醐天皇の皇女、用堂尼(?〜1396)で、以後、本寺は〈松ケ岡御所〉とも称され、豊臣秀頼の娘、天秀尼(1609〜1645)が住持するなど、代々寺格を誇る尼寺であった。その後はしだいに衰微し、明治時代後期には男僧寺となり、近代の名僧釈宗演(1859〜1919)が再興して現代に到っている。
 東慶寺は、別に〈駆込寺〉〈縁切寺〉とも呼ばれる。
 開山の覚山尼が夫や家庭の不和で苦しむ女性を救済するため、縁切寺法を定めたことによると伝えるが、縁切寺法が整備されたのは江戸時代以後という。江戸時代の離婚は夫にのみ権限があったが、特定の寺に駆け込んで三年間尼として奉公することによって離婚ができる、そんな特権をもった寺を駆込寺・縁切寺といった。
 谷深く開けている寺域には、多く昭和に入ってからの再建であるが、本堂・水月堂・客殿・鐘楼などが甍を並べる。松ケ岡宝蔵には、多くの縁切文書のほか、鎌倉尼五山の一つ太平寺(廃寺)旧蔵の聖観音立像(土紋装飾、南北朝時代)、天秀尼遺愛の漆器類など多くの寺宝が展示されている(月曜休館)。
 谷の中ほどに、〈用堂女王墓〉と書かれた石柱がある。
石段を登りつめると、用堂尼の墓をはじめ、歴代住持の卵塔(無縫塔ともいう)が立ちならび、拝する者を圧倒する。
 〈卵塔〉は卵形をしている故にその名があるが、鎌倉時代より禅僧の墓塔として広まり、各宗におよんだとされる。
 東慶寺の聖域ともいえるこの地から見る鬱蒼たる樹間からの木漏れ日には、とくに心がうたれる。明と暗、光と翳の対照は、この寺に身を寄せた女性たちの過去と未来へのさまざまな思いを象徴しているかのようである。本漏れ日の下の境内は、四季の花々に飾られる。
まるで仏・菩薩・逝きし人々に供花・散華しているかのようである。
 ここで永久の眠りについた、近・現代の日本を代表する文人も多い。西田幾多郎、岩波茂雄和辻哲郎、安倍能成、鈴木大拙、小林秀雄、田村俊子……。ことに鈴木大拙(1870〜1966)とのかかわりは深い。師の釈宗演とともに禅の世界的発展の基礎を築いた大拙は、本寺裏山に禅籍の収集をもって知られる〈松ケ岡文庫〉を創設した。
 豊富な花暦でも知られ、境内にはウメ、ハナショウブ、アジサイ、水月観音像リンドウなどが四季折々に咲きう。寺宝は境内の松ケ岡宝蔵で展示されている。
鎌倉三十三所観音霊場の第三十二番札所。
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