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(らいこうじ)〈時宗〉 |
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西御門の閑静な住宅街の奥に佇む、ひっそりとした寺。鎌倉の寺院としてはめずらしい、民家風のたたずまいである(1994年春、新本堂落慶)。
ここは、鎌倉三十三所観音霊場第五番札所。
開山は時宗の開祖、一遍(1239〜1289)とするが、一向とする説もあり、本寺の寺史とともにいまだ明らかではない。一向は一遍とまったく同時代に全国を遊行し、踊り念仏によってその教えを広めた憎という。
本堂には、本尊阿弥陀如来像と1384(永徳4年)宅間浄宏作と伝えられる地蔵菩薩像が安置されている。もとは西御門にあった報恩寺(現在は廃寺)の本尊だったもの。 |
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住所 |
鎌倉市西御門1−11−1 |
電話 |
0467-24-3476 |
拝観料 |
有料 |
拝観時間 |
10時〜16時 |
アクセス |
JR北鎌倉駅東口より金沢八景・太刀洗行きバス大学前又は岐れ道下車徒歩10分 |
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来迎寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】 |
宗派 |
時宗藤沢清浄光寺末(とうたくしょうじょうこうじまつ) |
山号寺号 |
満光山来迎寺 |
創建 |
1293(永仁元年) |
開山 |
一向上人 |
開基 |
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本尊 |
阿弥陀如来 |
寺宝 |
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木造如意輪観音半跏像と木造地蔵菩薩坐像。ともに県の重要文化財。どちらも写実的な衣紋が宋朝様式の典型だが、特に如意輪観音像の土紋装飾は、年代を表す責重なものである。
他に足腰の痛み、頭痛、目の病に効験があるという、俗に「自休さま」と呼ばれる木造跋陀婆羅尊者立像(市文)もある。 |
本尊脇の如意輪観音像は、如意輪観音は如意宝珠(あらゆる願いをかなえるという不思議な珠)と輪宝(煩悩を打ち砕くという輪)を持って衆生の願いをかなえ、苦を救うとされる観音で、六臂(六本の手)像に造られることが多い。
南北朝時代に造立された本寺の像は、鎌倉仏に特有な上紋装飾がほどこされたみごとな六臂像で、明治の神仏分離で破壊された源頼朝の法華堂から移されたものである。
鎌倉時代特有の仏像装飾の一技法である土紋を施した像で、元は頼朝の持仏堂だった法華堂にあったものを移したといわれる。尼将軍政子の持仏といわれ、安産の守護尊としてご利益があるとされる。
如意輪観音像には、次のような話が伝えられている。由比の長者のひとり娘が浜で遊んでいると、大きな鷲にさらわれ死体となって見つかった。嘆き悲しんだ長者は、供養にと娘の遺骨をこの如意輪観音像の胎内に納め、遺骨は現在も寺に遺っているという。
秋になると、寺の裏のテニスコート周辺から境内にかけて、イチョウの葉が色づき、一帯は美しい金色に染まる。
本寺には報恩寺(廃寺)旧蔵の南北朝時代の宅間浄宏作と伝えられる地蔵菩薩坐像と、自休さんと親しまれて禅宗寺院の浴室に安置されることの多い跋陀婆羅尊者像もある。跋陀婆羅尊者は浴室に入ったとき、にわかに悟りを開いたといわれる。
報恩寺は、来迎寺の西方にあった禅宗の寺院で、宅間ガ谷に住んだ関東管領、上杉能憲(1333〜1378)を開基、瑞泉寺や南禅寺に住した五山文学の第一人者義堂周信(1325〜1388)を開山にして1371(応安4)年、創建された。しかし その後百年余で廃絶し、本尊の地蔵菩薩は太平寺を経て法華堂へと移され、明治初めに来迎寺に迎えられて現在にいたっている。おそらく跋陀婆羅尊者像も同じ運命をたどったのではなかろうか。
来迎寺への石段登り口に太平寺跡の石碑が立つ。かつて来迎寺の北に鎌倉尼五山第一位、太平寺が伽藍を構えていたのである。
妙法尼を開山に創建され、仏殿供養は1283(弘安6)年ごろ、大休正念によっておこなわれたという。正念(1214〜1288)は中国から来日して浄智寺の開山の一人となり、円覚寺二世住持ともなった学識深い禅僧である
1556(弘治2)年、安房(千葉県南部)の里見義弘の鎌倉来襲の折に廃絶したどいう。
上紋装飾がほどこされた本尊の聖観音像は東慶寺に安住の地を得、禅宗様建築の典型的な遺構である。円覚寺の舎利殿は、本寺の仏殿を移築したものという。
来迎寺から源頼朝墓に向かう途中に清泉女学院がある。この一帯は、大倉幕府跡と称され、学校に隣接する一隅に石碑が立つ。
1180(治承4)年に鎌倉に入った源頼朝は、この地に邸宅を構え、順次、侍所や公文所を置いて東国支配の拠点となした。1185(文治1)年、平氏を滅ぼし、朝廷に守護・地頭の設置を認めさせて鎌倉幕府が開かれ、以後40年、幕府が宇津宮辻子(鎌倉市小町二丁目)に移るまで、日本最初の武家政権の中心の地であった。
大倉幕府の背後の山は大倉山といい、中腹には源頼朝や大江広元の墓などが伝えられている。 |
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(えがらてんじんしや) |
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石段を登った正面に朱塗りの拝殿が建ち、右手には樹齢900年の大イチョウがそびえ立っている。1104(長治1年)創建の古社で、源頼朝が大蔵幕府の鬼門の守護神としたという。祭神は菅原道真で、受験シーズンには合格祈願の若者が目立つ。白梅・紅梅が咲く2月が美しい。拝殿の左には、漫画家清水昆が河童の絵を描き、川端康成が題字を書いたかっぱ筆塚がある。その奥の、154人の漫画家が河童の絵を描いた絵筆塚もおもしろい。
菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする当社は、太宰府天満宮と北野天満宮とともに日本三天神の一つといわれる。道真(845〜903)は平安時代前期の学者・政治家で、死後〈天神〉として祀られ、学問の神としてあがめられてきた。多くの合格祈願の学生が訪れ、絵馬が奉納される。
1104(良治1)年、当地に天神画像軸が降臨したととによると伝える。源頼朝は大倉幕府の鬼門の神として尊崇し、徳川歴代将軍も鶴岡ハ幡営の造営・修築に際して、その余材を当社に与えて社殿の修造をおこなわせている。 |
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住所 |
鎌倉市二階堂(にかいどう)74 |
電話 |
0467−25−1772 |
拝観料 |
無料 |
拝観時間 |
8時30分〜16時30分 |
アクセス |
JR鎌倉駅東口より金沢八景・太刀洗行きバス岐れ道下車徒歩10分
JR北鎌倉駅東口より大塔宮行き 天神前下車徒歩5分 |
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(かまくらぐう)(大塔宮(おおとうのみや)) |
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悲劇の護良親王を祀る神社護良親王が幽閉されていたという土牢が残っている。
創建は明治2年で、祭神は大塔宮腹良親王。親王は父の後醍醐天皇とともに幕府倒幕と天皇親政の復活(建武の中興)で活躍したが、後に足利尊氏に捕らえられ幽閉、処刑された。本宮はその地に建つ。ソメイヨシノが咲く境内鎌倉宮は、大塔宮(おおとうみや)
護良親王(もりながしんのう)をお祀りするお宮(神社)です。
大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)を祭神に親王の終焉の地に明治天皇によって1869(明治2)年に創建された。
護良親王(1308〜1335)は、鎌倉幕府を倒して天皇親政を復活した(建武の中興。1333〜1336年)後醍醐天皇の皇子である。
仏門に入って比叡山延暦寺の最高統括者(天台座主)となったが、幕府の崩壊を計って還俗(げんぞく)し、建武の中興に大きな働きをなした。しかし1334(建武1)年、足利尊氏(あしかがたかうじ)に捕えられ鎌倉の東光寺に幽閉された。
当宮の境内は、東光寺旧跡と伝えられている。本殿背後の山に穿たれた土牢に、親王は幽閉されていたという。翌年、鎌倉幕府復活のため挙兵しただ北条時行軍に敗れた尊氏の弟直義は、護良親王を殺して敗走した。親王の首は、土牢の東方の藪の中にすておかれたままであったという。
これを聞いた理智光寺(廃寺)の住職が、寺域の山上に手厚く葬った。 |
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住所 |
鎌倉市二階堂154 |
電話 |
0467-22-0318 |
拝観時間 |
無料(土牢と宝物館の拝観は300円) |
アクセス |
JR鎌倉駅東口からバス、大塔宮行き(終点)下車すぐ |
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鎌倉宮・宮史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】 |
この時行の乱(中先代の乱)も約20日後には尊氏によって収束され、世は南朝と北朝が対立抗争した南北朝時代を迎える。
創建は新しいが、重苦しい歴史を秘めた当宮の境内では、毎秋9月21日・22日の両日、〈鎌倉薪能〉が奉納される。
篝火(かがりび)と照明の中で演じられる幽玄な舞は、波瀾の生涯を送った護良親王(もりながしんのう)への鎮魂の舞でもある。
護良親王墓(もりながしんのうぼ) 鎌倉宮から瑞泉寺方面に向かい、二階堂川にかかる橋を渡って歩むと、〈理智光寺跡〉の石碑が立つ。石碑前の長い石段を登りつめた山上に、護良親王の墓がある。鎌倉宮創建のとき、玉垣、石段などが整備されたという。なお、理智光寺は真言密教系の寺院で、明治の初めに廃絶している。
親王は延慶(えんぎょう)元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になり11歳で比叡山延暦寺に入室され、20歳にして天台座主(てんだいざす)となられます。
当時、鎌倉幕府の専横な政治に、後醍醐天皇は国家の荒廃を憂(うれ)いられ、親王と共に元弘(げんこう)元年6月比叡山にて討幕の挙兵をする手筈(てはず)でしたが、この計画は幕府に知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐(おき)に配流(はいる)となります。
親王は還俗し、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。
この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏(あしかがたかうじ) 赤松則村(あかまつのりむら)が六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。
後醍醐天皇は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となられます。
しかし、尊氏は征夷大将軍を欲し更に、諸国の武士へ武家の棟梁(とうりょう)であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し兵を集めますが、逆に尊氏の奸策(かんさく)に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺(とうこうじ)の土牢(つちろう)に幽閉されます。
建武(けんむ)2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行に破れた尊氏の弟 直義は逃れる際に、家臣 淵辺義博(ふちべよしひろ)へ親王暗殺を命じ、義博の凶刃に、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きずに御年28歳の若さでその苦闘の生涯を薨(こう)じられます。
明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれ、親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられ、こうして創建されたのが鎌倉宮です。
なお、明治6年、明治天皇は鎌倉宮に行幸遊ばされましたが、この時にお休みをなされた場所、すなわち行在所(あんざいしょ)の跡が、現在の鎌倉宮宝物殿です。
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