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最終更新日 2017:03:01    湘南の天気予報   只今の時間    2017年03月29日(水)14時26分

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鎌倉散策道【寿福寺・英勝寺・浄光明寺】
寿福寺
(じゆふくじ)〈臨済宗、もと鎌倉五山第三位)

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 総門から山門への光と験の織りなす石畳の長い参道は、鎌倉の寺院中でも屈指の景観である。
 新緑のまばゆいころや晩秋の紅葉の散るころは、とくに印象深い。
 仏殿が拝観できるのは、一般には4月中旬の〈鎌倉まつり〉の期間中に限られる。しかし静寂な寺のたたずまいは、山門周辺から十分にうかがい知ることができる。山号は〈亀谷山〉という。
 諸堂は拝観できないので、境内の静寂感を楽しみながら仏殿裏の高みにある墓地へ。西と北の崖にやぐらが口を開いているが、西側に高浜虚子と大佛次郎の墓、北側には北条政子と源実朝の墓と伝わるやぐらがある。
 寺のある扇が谷一帯は、源頼朝の父義朝の屋敷跡とされる。
鎌倉入りした頼朝は父ゆかりのこの地に館(幕府)を建てようとした。だが、亡き父の御堂があったことや、館の用地としては狭すぎることから断念したという。
 鎌倉五山第三位の壽福寺は、北条政子が栄西を開山に招いて、1200(正治2年)に建立された。
 栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた。総門からまっすぐに続く石畳の左右に繁る木々が幽玄な雰囲気を漂わせる。
 この地は、かつて奥州討伐に向かう源義家が勝利を祈願したという源氏山を背にした源家父祖伝来の地でもある。
 壽福寺建立は頼朝の遺志をかなえることでもあった。
住所 鎌倉市扇が谷1−17−7
電話  0467-22-6607
拝観料 無料
拝観時間  総門から中門まで拝観自由
アクセス  JR鎌倉駅西口から徒歩10分
寿福寺・寺史  : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派   臨済宗建長寺派
山号寺号  亀谷山壽福金剛禅寺(きこくざんじゅふくこんごうぜんじ)
創建   1200(正治2年)
開山  栄西
開基   
本尊 宝冠釈迦如来
寺宝
  栄西著「喫茶養生記」、木造地蔵菩薩立像などはいずれも国重文に指定され、鎌倉国宝館に寄託されてい
る。
 仏殿には高さ282センチの宝冠釈迦如来坐像を本尊に、文殊・普賢の両菩薩像を脇侍とした〈釈迦三尊像〉が安置されている。
 仏殿にはさらに、明治の初めの神仏分離で鶴岡ハ幡宮の仁王門にあった仁王像が移されて安置されている。
 本尊の宝冠釈迦如来坐像は俗に〈龍釈迦〉といわれており、脱乾漆像で木彫像ではない。〈脱乾漆〉とは、粘土などで原型を造り、その上に麻布などを漆で貼り重ね、乾燥を待って内部の粘土を 取りだし、心木を入れてゆがみを除く造像技法である。奈良時代後期に盛んで、それ以後はおこなわれなくなってしまったという。本寺の本尊は、当時の中国の影響を受けて室町時代に造立されたと推定される、貴重な作例なのである。普段は拝観できない。
 栄西(えいさい)は、宋から帰国の折に茶の苗を持ち帰ったことでも知られる。寺宝「喫茶養生記(きっさようじょうき)」(国重文)は、宋で学んだ栄西がかの地で見聞した茶の効用を記し、三代将軍実朝に献上した著書である。それ以後、禅宗と並び喫茶の儀礼が広まっていくことになった。
 本寺が静まるこの地は、かつて源頼朝の父義朝の屋敷跡だったという。
 1180(治承4)年、鎌倉に入った頼朝はこの地に邸宅を構えようとしたが、岡崎義実が義朝の菩のため小堂を建てていたため、大倉に居を決めたという。1199(正治1)年に没した頼朝の遺志を継いだ北条政子(1157〜1225)は、この地に伽藍の建立を発願し、第二代将軍頼家はこの地を栄西に寄進して、翌年に寿福寺の造営が開始ざれたという。
 開山に請ぜられた栄西(1141〜1215)は比叡山で天台と密教を学び、1168(仁安3)年と1187(文治3)年の二度、中国宋に渡っている。とくに2度目の入宋は5年におよび、臨済宗黄竜派の虚庵懐敞(さあんえしょう)のもとで禅を修めた。
 帰国後は禅を広める活動を開始したが、比叡山の反対を受けてその布教は朝廷より禁止された。栄西は、1198(建久9)年に『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著して禅の正当性を主張して抗議し、鎌倉に下ったのであった。
 北条政子らの帰依を得て本寺開山に迎えられた栄西の禅は、密教との並修的な色彩が濃かったといわれる。
 その後、禅はしだいに新たな支配階級としての武士層に支持され、約50年後の1251(建長3)年、日本最初の本格的な臨済宗寺院の建長寺が開創されることになるのである。
 墓地の一隅には二つのやぐらが並び、北条政子・源実朝の墓と伝える五輪塔(供養塔)が安置されている。
英勝寺
(えいしようじ)(浄土宗(じょうどしゅう))

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 北鎌倉から鎌倉へ向かって右手、横須賀線の車窓から見える東光山英勝寺は現存する鎌倉唯一の尼寺である。四季の花が絶えることのない花の寺は、近年まで非公開だったが、現在は拝観できるようになった。
 一般公開はされないが、清楚な境内に二層の屋根を置く仏殿は、均整のとれた堂々たる建物である。本尊の阿弥陀如来像は、徳川幕府第三代将軍、家光の寄進したものだという。
 開基である英勝院尼は太田道濯から数えて四代の孫康資の娘・お勝の方と呼ばれ、徳川家康に仕えた。水戸家初代徳川朝房の養母をつとめ家康の死後出家し、英勝院と号した。
住所 鎌倉市扇ガ谷1−16−3
電話  0467-22-3534
拝観時間  9時〜16時
アクセス  JR鎌倉駅西口から徒歩13分
英勝寺・寺史 :  【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派  浄土宗
山号寺号  東光山英勝寺
創建   1636年(寛永13年)
開山   玉峯清因
開基    英勝院尼
本尊 阿弥陀如来
寺宝
 本尊木造阿弥陀三尊立像ほか
 1634(寛永11)年の創建以来の仏殿・鐘楼・祀堂・唐門が遺されている。
 本寺の寺域は太田道灌(1432〜1486)の屋敷跡といわれている。道灌は、扇ガ谷上杉家の六代目の上杉定正に仕えた武将で、築城・兵馬の法にすぐれ、江戸城を築いたことはよく知られている。また歌人としても名高い。
  道灌の子孫、太田康資の娘は徳川家康の側室(お勝の局)であったが、家康の死後、落飾して英勝尼と称し、祖先の地に本寺を創建した。養母して育てた徳川頼房(家康の第一子。水戸徳川の祖)の娘を養育して尼(玉峰清因)とし、住持させたという。以後、歴代の住持は水戸徳川家から迎えられることになった。寺勢は徳川幕府の保護を得て維持されたといわれる。
 英勝寺の先の道沿いに、阿仏尼墓と伝えられる小岩窟がある。内に石造の六層塔が安置されている。阿仏尼(?〜1283)は藤原定家の子、為家の側室になった歌人で、定家の流れを伝える和歌の師範家、冷泉家の祖となった冷泉為相らを生んだ。1279(弘安2)年、為相の領地相続について幕府に訴えるため鎌倉に下った阿仏尼は、そのときの様を『十六夜日記』として著している。
 通用門を出て50メートルほど行くと、冷泉為相(れいせんためすけ)の母で「十六夜日記(いざよいにっき)」の著者阿仏尼(あぶつに)の墓といわれる供養塔がある。この場所もかつてはこの寺の境内だった。開山生存中に英勝寺は寺領を増やし、源義家東征の時、旗を立てて出陣したと伝えられる源氏山も与えられた。その山腹には道濯の首塚もある。
浄光明寺
(じょうこうみょうじ)〈真言宗〉

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 泉が谷の奥、鎌倉文士の1人、里見惇の旧居を過ぎると浄光明寺はある。
 山門を入ると右に不動堂、、左に客殿・庫裡、石段を登って本堂(阿弥陀堂)・開山堂、そして、鎌倉の代表的仏像である阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)と地蔵菩薩像を安置する収蔵庫がある。
 源頼朝の願いで文覚上人(もんがくしょうにん)が建てた堂が始まりと伝えられる。その後、1251(建長3年)、鎌倉幕府の六代執権の北条長時が真阿(しんあ)(真聖国師)を開山として創建した。1333(元弘3年)には、後醍醐天皇の勅願所(ちょくがんじょ)となる一方、真言・天台・禅・浄土の四つの勧学院を建て、学問の道場としての基礎を築いた。また、足利尊氏は1335(建武2年)、この寺にこもり、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏・直義兄弟の帰依は厚く、寺領や仏舎利の寄進を受けたと古文書にある。
 本堂横の収蔵庫には本尊の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩立像が安置されている。地蔵菩薩立像は矢拾地蔵(やひろいじぞう)とも呼ばれ、足利直義の守り本尊であった。
住所 鎌倉市扇が谷2−12−1
電話  0467-22-1359
拝観時間  境内自由
(収蔵庫の山上拝観は、木・土・日・祝祭日の10時〜12時・13時〜16時で、雨天多湿の日は中止。拝観料 200円)
アクセス  JR鎌倉駅西口から徒歩15分
浄光明寺・寺史 :::【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派  真言宗泉涌寺派
山号寺号  泉谷山浄光明寺(せんごくざんじょうこうみょうじ)
創建   1252(建長3年)
開山   真阿(真聖国師)
開基    北条長時
本尊 阿弥陀三尊
寺宝
 本尊と両脇侍の木造阿弥陀三尊像は1299年頃の作(国重文)。鎌倉地方の仏像彫刻の秀作のひとつ   で、本尊衣紋の土紋装飾、脇侍の姿勢の高く結いあげた宝髻などに宋朝様式の強い影響が表れている。五輪塔(重文)、木造地蔵菩薩立像(矢拾地蔵・県重文)、愛染明王像(市文)など。また僧形八幡・弘法大師画像(瓦の御影・市文)、三千仏画像、真聖国師画像、ほかに江戸時代の絵画も多い。
 阿弥陀三尊とは、中尊に阿弥陀如来、左右に観音・勢至の二菩薩を脇侍(きょうじ)としてまつる形式である。中尊の阿弥陀如来は宝冠を頭上にいただき、鎌倉仏に特有な上紋装飾がほどこされ、脇侍する菩薩は面長で優美なお顔と流れるような衣の袈襞に特色をもつ。〈土紋〉は、粘土で作った花や法輪(仏の教かが転じて、人々の煩悩などを打ち砕くことを、車輪にたとえた語)の紋様を漆で衣に貼りつけて立体感を出した装飾法であるが、中国宋の影響が強いとされる。阿弥陀三尊像が造立された鎌倉後期は、禅宗の影響下に、造像にも宋風様式が強くあらわれたとされる。中尊の宝冠は江戸時代のもので、本来はなかったという。
 端整な顔だちの地蔵菩薩像(南北朝時代)は矢拾地蔵ともいわれ、戦陣にあった足利直義に矢を拾い集めて渡して窮地を救ったとの伝えをもつ。足利直義の守り本尊であった。
 その由来には、ある戦いで矢が尽き、直義が困っているところへ一人の子供の僧が走り寄り、拾い集めた矢を差し出した。不思議に思い子供を見ると、それは錫杖(地蔵が手に持つ杖)を矢とともに持つ、日頃信仰している地蔵の化身だった----という伝説がある。
 本寺は北条長時を開基、真阿を開山として、1251(建長三)年に創建された。
 長時(1230〜1264)は建長寺開基の北条時頼のあとに執権となったが、実権は時頼が握っていたという。真阿(真聖国師)は浄土教の教義を修めた僧で、本寺も開創時は浄土系の寺院であったと推定される。
 そのことは、阿弥陀如来を本尊とすることにもうかがえるような気がする。しばらくして四宗を兼学する寺院となり、以来、明治の初めまでそうであったという。
 南北朝・室町時代には、とくに足列氏との関係が深い寺であった。1335(建武2)年、北条高時の遺子時行が挙兵して、一時的にもせよ鎌倉幕府を復活した(中先代の乱)。足利尊氏は、護良親王を殺して敗走した弟直義救援のため、勅許を得ずに鎌倉に入った。後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏追討の命を下して鎌倉に向かわせた。その間しばらく尊氏は本寺にこもって、天皇に背いて挙兵することを決断したという。そして世は、南北朝の時代に入るのである。`
 浄光明寺の裏山には、冷泉為相(れいぜんためすけ)(1263〜1328)と伝えられる墓がある。藤原定家の孫で、その流れを伝える歌道の家系、冷泉家の祖である。母は『十六夜日記』を著した阿仏尼(?〜1283)で、墓は英勝寺北側の小岩窟内であるといわれている。
鎌倉三十三所観音霊場の第二十五番札所。
 江戸期に造立された本堂の阿弥陀堂、山門など建築も見事なものである。早春のウメ、初夏のハナショウブ、秋のハギなど、花暦も豊富である。
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