湘南の古都鎌倉
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最終更新日 2024:04:01 湘南の天気予報 只今の時間  2024年04月19日(金)20時39分

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湘南の古都 鎌倉
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鎌倉散策道【杉本寺・報国寺・浄妙寺】
杉本寺
(すぎもとてら)(天台宗)

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 「11面杉本観音」と書いた幟が並ぶ石段を登り、運慶作と伝わる仁王像が立つ仁王門をくぐり、さらに石段を登ると風情ある茅葺屋根の本堂が佳っている。その東側に並ぶ石塔は、背後にあった杉本城での戦死者の供養塔である。 ここは鎌倉最古の寺院。坂東三十三観音の第1番札所で、巡礼の姿も目立つ。奈良時代創建と伝わる鎌倉最古の寺。
 鎌倉石の苔むした石段で知られる杉本寺も見逃せない。頼朝公入府以前からあるといわれる鎌倉最古の寺で、仁王門に立つ仁王罹は運慶作と伝わる。茅葺き屋根の本堂に祀られてい心11面観音像も間近で拝観できる。
 寺伝に「天平6(734)年に堂宇建立」とあり、創建は奈良時代にまでさかのぼる。鎌倉初期の火災の時、3体の本尊が自ら境内の杉の木の下に避難して難を避けたという縁起から杉本観音と呼ばれる。
住所 鎌倉市二階堂903
電話  0467-22-3463
拝観料 有料
拝観時間  8時〜16時30分
アクセス  JR鎌倉駅東口よりバス、金沢八景・鎌倉霊園正門前太刀洗行きバス、杉本観音下車徒歩1分
杉本寺・寺史  : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派   天台宗
山号寺号  大蔵山観音院杉本寺(だいぞうざんかんのんいんすぎもとでら)
創建   734(天平6年)
開山  行基菩薩
開基    光明皇后
本尊  11面観音
寺宝
 本尊の木造11面観音立像は三体ある。内陣の左側にある杉本観音が一番古く、734年行基作とされている(市文)。中央は851年慈覚大師作、右側は985年恵心僧都作で、いずれも国重文。脇立に運慶作の地蔵菩薩、宅間法眼作の毘沙門天王各木像など。ほかに源頼朝寄進の11面観音像(運慶作)、山門仁王像(同)、大蔵弁財天像など。
 釈迦堂ガ谷をあとにして住宅地の道にもどり、しばらく行くと、〈上杉朝宗・氏憲邸跡〉の石碑がある。その家系は、犬懸に住んだので犬懸上杉(いぬかけうえすぎ)氏というが、氏憲(禅秀)は1416(応永23)年に鎌倉公方足利持氏に対して起こした反乱(上杉禅秀の乱)で敗れ、自害して、同家も滅亡した。
 石碑前を滑川(なめりがわ)に沿って左に折れて犬懸橋を渡ると、金沢街道に面して、石段両脇の杉木立の中、両脇に「十一面杉本観音」と書かれた白旗がが立ちならぶ、鎌倉幕府が開かれる500年近くも前に建てられた鎌倉最古の寺といわれる杉本寺がある。
  行基(668〜749)の開創と伝えるが、定かではない。諸国をめぐり民間布教と社会事業に尽力し、東大寺大仏の建立の勧進(寺社の造営・造像などの奇付を募ること)としで活躍した行基が731(天平3年)、関東地方を歩いていたが、鎌倉の大蔵山から町を眺め、「ここにこそ観音様を置こう」と思い、自ら彫刻した像を安置した。その後、光明皇后が夢の中で、「財宝を寄付して東国の治安を正し、人々を救いなさい」と観音様のお告げを受け、734(天平六年)に本堂を建立したといわれている。
 伝承をもつ寺院は、全国におびただしい。江戸時代中期に再興されたという仁王門から苔むしか石股上に見える茅葺き屋根の本堂(1678年再興)のたたずまいは、鎌倉の他の寺とは趣を異にし、古刹であることを実感させる。
 お堂の内陣には、伝行基作・伝円仁作・伝源信作の三体の11面観音像が、秘仏本尊として安置されている。
 坂東三十三所観音霊場・鎌倉三十三所観音霊場の、それぞれ第一番札所たるゆえんである。円仁(慈覚大師。794〜864)は、日本天台宗の開祖最澄に師事し、9年におよぶ中国唐での仏法修行ののち帰国した高僧である。源信(恵心僧都。942〜1017)は、『往生要集』を著した天台宗の学僧として名高い。
 1189(文治5年)11月、隣家より起こった火災によって本堂が焼失するという災難があった。その時、三体の観音像が自力で庭の大杉のもとに避難し、その力に感心した人々が杉の本の観音と呼ぶようになったと『吾妻鏡』は伝えている。
  またいつの頃からか、寺の前を馬に乗ったまま通ると必ず落馬するというので「下馬観音」といわれ、建長寺の大覚禅師が祈願し、袈裟で観音を覆ったので「覆面観音」ともいわれた。
 11面観音は、あらゆる方向に顔を向けて多くの人々を救済する能力を有する観音といわれる。
 行基、円仁、源信とも、日本仏教に大きな足跡と影響を残じた偉大な救済者であった。
報国寺
(ほうこくじ)〈竹の寺、臨済宗〉

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 「竹の寺」として知られる報国寺は1334(建武元年)に天岸慧広(てんがんえこう)(仏乗禅師(ぶつじょうぜんし)を開山、足利家時を開基として開かれた。
 その寺領は5キロ先の衣張山に及ぶ広大なものである。1439(永享の乱)で第四代鎌倉公方の嫡男・足利義久が14歳で自刃した悲劇の地でもある。古くから境内の孟宗の竹林が知られ、現在に至っている
 本尊は釈迦如来像で仏殿に安置されている。
 足利家時の墓や「心の花」「白樺」の同人だった歌人木下利玄の歌碑がある。
 三門をくぐり参道を進む。右側の石段を上ると本尊の釈迦如来坐像がまつられている本堂がある。本堂の右手には迦葉堂、左手には茅葺きの鐘楼がある。数多くの文化財が伝えられているが、その多くは現在鎌倉国宝館に保管されている。
住所 鎌倉市浄明寺2−7−4
電話  0467-22-0762
拝観料 無料(竹の庭拝観は200円、お抹茶付きの場合は700円)
拝観時間  9時〜16時
アクセス  JR鎌倉駅東口よりバス、金沢八景・鎌倉霊園正門前太刀洗行きバス、浄明寺下車徒歩3分
報国寺・寺史  >【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派  臨済宗建長寺派
山号寺号  功臣山報国寺(こうしんざんほうこくじ)
創建   1334(建武元年)
開山   天岸慧広(仏乗禅師)
開基    足利家時
本尊 釈迦如来
寺宝
  国重文・東帰巣、天岸慧広度牒、天岸慧広頂相。県指定文化財・在中和尚頂相、羅漢図、花鳥図。市指定文化財・文殊大士像、十六羅漢像、陽谷和尚頂相、牡丹蝶鳥銅鏡、本尊釈迦如来坐像(本堂)、仏乗禅師坐像(迦葉堂)。
 開山の慧広(仏乗禅師。1273〜1335)は、浄妙寺・浄智寺・建長寺などの住持を歴任した高峰顕日の法を嗣いだ。中国元に渡って修学し、詩文にもすぐれ、『東帰集』は五山文学の貴重な作品は勅願(漢詩)約200篇を集めたもので、日本人によるまとまった勅願集としては最初のものである。
 宅間ガ谷に静まる本寺は、上杉重兼を開基、天岸慧広を開山に1334(建武1)年に創建されたと伝える。開基は足利尊氏の祖父、家時とする説もある。重兼は、足利尊氏に重用された重能の弟で、宅間ガ谷に住んだので、この系統は宅間上杉氏といわれる。
 境内には、本尊の釈迦如来像を安置する仏殿、迦葉堂、鐘楼、庫裡などが建ちならぶ。かつて本寺には宅間法眼作の迦葉像があり、〈宅間寺〉〈迦葉寺〉とも呼ばれていたが、1890(明治23)年の火災で焼失してしまった。
 宅間(託磨)は、鎌倉時代に栄えた絵仏師の有力な一派で、源頼朝に招かれて宅間為久が鎌倉に下って勝長寿院の壁画を描いたことが知られている。本寺のある谷を〈宅間が谷〉というのも。偽久の門流が住みついたからともいわれてる。
 竹庭奥のやぐら内には、足利家時・義久と伝えられる墓がある。1438(永享10)年、鎌倉公方足利持氏が、室町将軍足利義教と関東管領上杉憲実と戦って敗れ、翌年、持氏は永安寺(廃寺。足利氏満の菩提のため創建され、瑞泉寺あたりにあった禅寺)で自刃、嫡子の義久も報国寺で自害して果てたという。ときに義久14歳であった。ここにも、時代の波に否応なく翻弄された者の証が伝えられているのである。
 竹林の他、三つ葉ツツジ、サンシュユ、サツキ、セッコク、十月頃に咲く十月桜、マキ等が目を楽しませる。毎日曜日開かれる日曜坐禅会は初心者にも本格的に坐禅を懇切丁寧に指導してくれるので好評である。
鎌倉三十三所観音霊場の第十番札所。
浄妙寺
(じょうみょうじ)〈臨済宗、もと鎌倉五山第五位〉

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 桜並木の長い参道を歩むと、山号を〈稲荷山〉とする浄妙寺がある。
枯山水の庭園が美しい足利氏ゆかりの寺開基は足利義兼、開山は退行行勇で、創建は文治4(1188)年。当初は密教系の寺院で極楽寺とりっ寺名だったが、正嘉元(1257)年に蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅寺に改め、名も浄妙寺に変えたという。中興開基は足利貞氏。室町時代は七堂伽藍を供え、23の塔頭を数えたようだが、度重なる火災などで焼失し、次第に衰退した。本尊は釈迦如来で本堂に安置されている。
住所 鎌倉市浄明寺3ー8ー31
電話 0467-22-2818
拝観料 有料
拝観時間 9時〜16時30分
アクセス JR鎌倉駅東口よりバス、金沢八景・鎌倉霊園正門前太刀洗行きバス、浄明寺下車徒歩2分
浄妙寺・寺史  : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派 臨済宗建長寺派
山号寺号 稲荷山浄妙寺
創建 1188(文治4年)
開山  退耕行男
開基 足利義兼
本尊 釈迦如来
寺宝
 本尊の木造釈迦如来坐像は南北朝時代の作。木造退耕行勇坐像(国重文・非公開)は開山の晩年の姿を伝える肖像彫刻。絵画では紙本淡彩地蔵菩薩像・足利尊氏自画賛(市文)など。陶器では青磁香炉が鎌倉国宝館に寄託されている。
 惣門に入ると銅葺き屋根の優美な本堂(仏殿)が印象的である。足和義兼を開基、退耕行男を開山として、1188(文治4)年に密教系の寺院〈極楽寺〉として創建されたと伝える。
 1257(正嘉1)年に月峰了然が住持してから禅刹に改められ、寺名も〈浄妙寺〉に変えられたという。中興開基を足利貞氏とする。
 開基の足利義兼(?〜1199)は源頼朝に近侍した武将で、頼朝の東大寺の再建供養(1195年)のための上洛にも供奉した。出家後は足利(栃木県)に隠棲し、のちの鏝阿寺や足利学校の基を築いたという。開山の行勇(1163〜1241)は初め密教を修め、鶴岡ハ幡宮の供僧(寺院や神社付属の寺院に置かれ、本尊に食物や香華を供え、定時の読経などに奉仕する憎)となり、源頼朝や北条政子らの信任も厚かったという。日本臨済宗の祖、栄西が鎌倉に下るとその門に入って、禅を修めて法を嗣いだ了然は建長寺開山の蘭渓道隆の高弟ぺ中興開基の足利貞氏(1273〜1331)は室町幕府を開いた尊氏の父である。
 かつて足利義満によって五山の制が定められたころには、その寺格にふさわしい伽藍をそなえ多くの塔頭もあったが、たびかさなる火災などで衰退し、今は惣門、本堂、客殿、庫裡などが建つ。
 本尊の釈迦如来像を安置する本堂は、丸みをおびた安定感のある屋根の故か人の心をやわらげる柔和なお堂である。
 瓦葺きの総門を抜けると梅や柏槙が植えられた境内を本堂へと石畳が伸びる。参道両側には、刈り込まれた茶の本が植えられている。栄西の法を嗣いだ開山行勇の寺にふさわしい。栄西は二度中国に渡っているが、医薬としての茶の効用と栽培・製造などの方法を伝え、『喫茶養生記』を著している。
 この書は源実朝に献じられたという。境内は国の指定史跡にもなっている。本堂には本尊の釈迦如来像や、子宝と婦人病にご利益があるという淡島明神像がまつられている。本堂左手には喜泉庵という庵が復元されている。
 かつては僧たちが会して茶を喫した庵で、枯山水を眺めながら抹茶をいただくことができる。 本堂手前の道を右に進むと、三宝荒神像をまつった本寂堂があり、その奥には鎌倉の地名の由来にもなったとされる鎌足稲荷神社がある。七世紀、大化の改新を断行した立役者のひとり、藤原鎌足にちなむ。
 本堂背後の墓地に、足利貞氏の墓と伝えられる宝篋印塔がある。銘文によると、1392(明徳3)年に建立されたものという。
 かつて本寺西北には、足利高義(尊氏の異母兄)の菩提のため創建された延福寺と、足利直義(尊氏の弟)開基と伝える大休寺があったという。
鎌倉三十三所観音霊場の第九番札所。
 浄妙寺から明王院に向かう道筋に〈足利公方邸旧跡〉の石碑が立つ。足利尊氏の旧邸で、代々の鎌倉公方が住んだという。鎌倉公方とは、室町幕府が関東支配のため鎌倉に設置した鎌倉府の長官で、尊氏の子基氏に始まり、五代にわたり世襲された。その間、公方邸を中心に、激しい政争と武力衡突がくりかえされた。
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