湘南の古都鎌倉
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湘南の古都 鎌倉
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鎌倉散策道【本覚寺・妙本寺】
本覚寺
(ほんがくじ)〈日朝様、日蓮宗〉

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 江の島鎌倉七福神のひとつ「恵比須様」をまつる。1436(永享8年)に日出によって創建された。もともとここには天台宗系の夷堂があったが、日出はこれを日蓮宗に改め、本覚寺とした。
 二代目住持の日朝は、後に身延山久遠寺の住持になった際、かの地にあった日蓮の遺骨を本覚寺に分骨する。それは身延に参詣することが難しい女性や老人のためであり、本覚寺が「東身延」と呼ばれるきっかけとなった。
 眼の病気を治してくれる寺として知られ、「日朝さま」の愛称で親しまれている。日朝が眼の病気を患ったとき、法華経と自らの回復力によって治癒したというのがその由来である。境内に建つ夷堂は、縁結びや商売繁盛の神様として参拝客が多い。もともとは頼朝が幕府の守り神として建立した。現在の建物は1981(昭和56年)に再建されたもの。
 境内には刀工として有名な正宗の墓と、石塔がある。正月、商売繁盛を祈願して福娘がお神酒をふるまう姿は鎌倉の風物詩となっている。
住所 鎌倉市小町1−12−12
電話 0467-22-0490
拝観料 無料
拝観時間 特になし
アクセス JR鎌倉駅東口より、徒歩3分
本覚寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派 日蓮宗
山号寺号 妙厳山本覚寺
創建 1436(永享8年)
開山  日出
開基
本尊 釈迦三尊
寺宝
 南北朝期の作である本尊の木造釈迦如来像及び両脇侍坐像(市文)。ほかに木造二天立像(持国天、多聞天)、日蓮上人真筆、東身延額など。
 妙本寺総門を出て夷堂橋(えびすどうはし)を渡ると、本覚寺の仁王門である。境内はからりと明るい。本堂には。もと夷堂(えびすどう)の本尊と伝えられる南北朝時代の釈迦如来像に文殊・普賢の両菩薩像を配した〈釈迦三尊像〉を安置し、日蓮宗で守護神として尊崇される二天王(持国天と毘沙門天)も安置されている。
 日蓮上人分骨堂は、本寺二世住持の日朝が、身延山への参詣が困難な人々なために身延出より日蓮上人の遺骨を分けて納めたというお堂で、本寺が松平定信筆の「東身延」の額も伝わっている、のちに日朝の徳をたたえて〈日朝様〉と呼ばれるゆえんとなっている。近年再建された夷堂は、独特の建築美をもつハ角堂である。
 本寺が建つ地は、源頼朝が幕府の裏鬼門にあたるとして、夷堂を建て守護神の夷神を祀ったところと伝えられている。
 1271(文永8)年、日蓮は竜口の刑場で斬首されかけたが、あやうく難をまぬかれて佐渡へ流罪となった。
 1274(文永12)年、許されて鎌倉に帰った日蓮は、身延山に出発するまでの数十日間、このお堂に止宿したという。その後、日出(にっしゅつ)(1381〜1459)が夷堂に住して日蓮の教えをひろめたという。
 日出は他宗の迫害や鎌倉公方足利持氏に捕えられたりしたが、のちには持氏の厚い信頼を得て、1436(永享8)年、本寺を開創したとされる。二世住持の日朝(1422〜1500)は幼くして日出に師事し、のちに身延山久遠寺の貫首(一宗一派あるいは一寺の長)となった  室町時代の代表的な日蓮宗の学僧で、日蓮の未発表の文章(『日蓮遺文』)の収集・註釈など、業績は多岐にわたる。境内の墓地には、鎌倉に住んで古刀の秘伝を調べ一派を開いた鎌倉時代後期の刀匠、正宗の墓が伝えられている。
妙本寺
(みょうほんじ)日蓮宗

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 日蓮宗の本山。「比企の乱」で知られる比企一族の邸宅跡である。
 比企能員の妻は2代将軍頼家の乳母で、その娘若狭局は頼家の側室だった。その勢力を警戒した北条氏は策謀して比企一族を滅ぼした。難を逃れた能員の子能本は一族の菩提寺として開基も比企能員の末子、能本と伝えられる。日蓮聖人に帰依した能本が邸を喜捨、妙本寺が創建された。
 山号の長興は能本の父能員の法号、寺号の妙本は母の法号。日蓮聖人が身延に隠遁すると、直弟子の日朗はここを拠点に布教を行い、やがて同寺は日朗門下の拠点として信仰を集めた。日蓮宗の格式高い寺として、代々の住職は1947(昭和22)まで東京・池上本門寺の住持を兼務していた。 
 祖師堂前のカイドウには、女性をめぐり仲違いしていた評論家小林秀雄と詩人中原中也がその前で和解したというエピソードが残る。
 妙本寺は谷戸に埋もれるように建つ大寺。
住所 鎌倉市大町1−15−1
電話 0467-22-0777
拝観料 有料
拝観時間 境内自由
アクセス JR鎌倉駅東口徒歩8分
妙本寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派 日蓮宗
山号寺号 長興山妙本寺
創建 1260(文応元年)
開山  日蓮聖人
開基 比企大学三郎能本
本尊 十界大曼陀羅御本尊(じっかいだいまんだら)
寺宝
 日蓮聖人臨終の際、その枕元に掲げられた日蓮聖人の自筆本尊、存命中に刻ませたという祖師堂の日蓮聖人像、徳川慶喜(徳川十五代将軍)の手による写経『撰法華経』など。
 比企ガ谷の谷奥、緑深い静寂の地に妙本寺はある。明るい総門を入って、ゆるやかに上る杉木立の参道を行くと二天門がある。〈二天門〉は、四天王のうちの二天、とくに日蓮宗で守護神として尊崇される持国天と毘沙門天(多聞天)を安置することが多いという。口を開いた阿形と口を閉じた吽形の金剛力士を安置する、〈仁王門〉とは異なる。
 二天門を入ると入母屋造りの天堂に圧倒される。日蓮宗開祖、白蓮上人像を安置する祖師堂である。本寺は二門(総門・二天門)、二堂(本堂・祖師堂)形式をそなえた、日蓮宗に特徴的な伽藍配置をもった寺院といわれる。
 祖師堂の右手山腹には本寺創建に深くかかわる比企一族の墓塔があり、左手石段を登った奥(現在、墓地)に社〈新釈迦堂跡〉がある。源頼家の娘で四代将軍九条(藤原)頼経の妻、竹の御所の住んでいた跡に、その没後に建立された寺という。ここに住持した『万葉集』の研究室、仙寛(1203〜?)の石碑が、祖師堂前に立てられている。
  本寺は、比企大学三郎能本を開基、日朗を開山に、1260(文応1)年に創建されたと伝える。
 能本は、この地に邸宅を構えていた比企能員(?〜1203)の子である。能員の妻はニ代将軍 源頼家の乳母で、娘の若狭局は頼家の側室となって一幡を生んだ。鎌倉幕府内に大きな発言権を有することとなった能員は、頼家の弟千幡(のちの源実朝)を擁立して幕府の実権を握ろうとする北条時政と対立し、1203(建仁3)年、頼家が重病になったとき、謀略によって時政に殺害された。
 一幡をはじめ比企一族の多くは殺され、頼家は伊豆に幽閉され、翌年、北条氏によって殺された。
 この難をのがれた能本は、のちに学者となり、許されて鎌倉にもどり日蓮に深く帰依し、父の屋敷跡に本寺を開創したという。
 開山の日朗(1245〜1320)は、幼少のころから常に日蓮に従って辛苦をともにし、日蓮の六人の高弟(六老僧)の1人として、師の死後は本寺にあって教団を統率した。また池上の本門寺が創建されると、妙本寺と合わせ管して東国布教の拠点となし、さらに弟子の育成にも尽力して多くのすぐれた人材を輩出した。以後、日朗の門流は全国的に大きく展開していったのである。
 本寺の方丈への石没前を左に登ると〈蛇苦止堂〉があり、比企一族の滅亡に際しての哀話を伝える。源頼家の側室若狭局(比企能員の娘)は、時政に攻められたとき、比企ガ谷の井戸に身を投じて果てたという。その霊が蛇と化して執権北条政村の娘にとりつき、のたうちまわるような重病になった。政村はその蛇と化した霊の苦しみを鎮めるため、蛇苦止堂を建て供養したという。
 杉林に囲まれた広い境内はサクラやカイドウが美しく、祖師堂の脇から祇園山ハイキングコースに抜けることもできる。
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