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源頼朝の開幕から頼朝の死
政子と悲劇の将軍・頼家と実朝
実朝暗殺 源氏の滅亡
北条一族の執権・日蓮と忍性の対立
蒙古襲来と北条氏の滅亡
湘南物語は下記の文献を参考にさせて頂いております。ここで深く御礼申し上げます。
湘南物語 参考文献
血風で生まれた鎌倉文化・謀略と血しぶきの鎌倉
源頼朝の開幕から頼朝の死 政子と悲劇の将軍・頼家と実朝 実朝暗殺 源氏の滅亡
北条一族の執権・日蓮と忍性の対立 蒙古襲来と北条氏の滅亡
◆ 北条一族の執権日蓮と忍性の宗教対立
● 北条義時、北条政子、大江広元 没す
合戦は幕府の勝利とほぼ決定したこの日、樋口河原というところで、院の使いが泰時と会った。泰時は馬をおりて院宣(いんぜん)を拝したあと、岡村次郎兵衛という武士に「わが5000余騎のなかに、院宣の読める者がいるか」とたずねた。岡村がわからずにまごまごしていると、勅使側の河原小三郎が「お味方に武州男衾郡の藤田能国がいれば、彼ぱ文学の士であるから読めるでありましょう」とことばを添えた。
 泰時は藤田能国を召し出して、院宣の内容をようやく知り得た。 東国武士団が文盲の士ばかりであった事実は、鎌倉文化の伝承に正確さを欠いたことにつながり、「文字も読めない関東の荒えびす共」と朝廷方に侮られる要因ともなったのである。1224年(貞応3年)6月13日、義時は62歳で死んだ。泰時が執権となった翌1225年(嘉禄元年)6月10日、大江広元が78歳で、1ヵ月後の7月12目には尼将軍・北条政子も69歳で死んだ。
 政子は実朝と同じく、いまは″幻の寺″となった勝長寿院の境内に葬られた。それで今日寿福寺に見られる実朝と、政子の墓は供養塔ともいわれる。
。政子の死んだ年の12月20日、御所と幕府は宇津宮辻子(うつのみやずし)に移った。小町大路の中ほど辺りが幕府跡であった。この宇都宮御所で1230年(寛喜2年)12月、将軍・頼経(よりつね)は13歳で結婚した。相手の女性は頼家(よりいえ)の娘で″竹御所″といった。この時、彼女は28歳であった。
 1232年(貞永元年)8月に泰時は式目51ヵ条を制定した。貞永式目(じょうえいしきもく)とも御成敗式目(ごせいはいしきもく)ともいわれる
 この法制は、のちの足利氏や戦国大名たちも規範にしている。材木座の飯島崎に和賀江の築港が完成したのは、この年の8月9日である。 
 1234年(天福2年)7月27日、竹御所は死産した。ついで竹御所は悩乱し、32歳で死亡したと伝えられる。この死産は、実は無事に男子を出生したが、それでは源氏嫡流の血が復活するので窒息死させてしまった。それで竹御所が狂い死にしたのではないかと疑えるのである。
 執権・泰時は公私にわたり清廉で、最も英明な政治家であったが、源氏を絶やすことにおいては祖父・時政・義時の方針を踏襲したようだ。
 1236年(嘉禎2年)8月、宇津宮辻子幕府から若宮幕府に移った。この地域はほぼ同じところと見られているが、1228年(安貞2年)、1229年(寛喜元年)と2年続きで、鎌倉は大地震に見舞われた。このときの倒壊建物を新築したさい、建造物の移動もあったので、若宮幕府と呼び名を変えたといわれる。

● 義時の弟・北条時房、泰時 没する。
北条泰時邸は幕府に面していた。いまの宝戒寺(八幡宮からから東へ300メートル)が泰時のいた小町の亭跡である。
 宝戒寺は1335年(建武2年)足利尊氏(あしかがたかうじ)が、滅亡した北条高時(ほうじょうたかとき)一門の慰霊のため、葛西ガ谷の東勝寺を移転したものだ。
 本尊の地蔵菩薩・宝戒寺と歓喜天立像は重要文化財に指定されている。9月中ごろから10月はじめにかけては、白萩のこぼれ咲く寺である。
 1240年(延応2年)1月、義時の弟・時房が66歳で死んだ。翌1241年(仁治2年)泰時は朝比奈切り通しの開通を、武蔵野の開墾と結びつけ、大いに産業開発を進めたが、次の年の仁治3年6月15日に60歳で死んだ。日頃の過労の上に、赤痢を併発したのである。

● 四代執権には泰時の孫・経時。
泰時の長男はすでに1230年6月に病死、次男の時実は1227年6月に変死している。四代執権には泰時の孫・経時(つねとき)がなった。経時は十九歳であった。
 泰時の墓は鎌倉市大船の粟船山常楽寺(ぞくせんざんじょうらくじ)にある。泰時は常楽寺の開基で、開山は退耕行勇といわれる。泰時が夫人の母親の供養に粟船堂をつくったのがはじめであった。
 寺は1691年(元禄4年)と柱に記された仏殿、山門、文殊堂が残っている。ここの銅鐘は、時頼が泰時のために鋳造した銅鐘である。神奈川県の古鐘では。比べるものがないほど美しい作品だが、大工(鋳物師)の銘はない。重要文化財に指定され、陰刻の文字も流麗で、銘文に宝治2年(1247年)とある。
 仏殿の裏手に泰時の墓と、大応国師の墓、泰時の娘で三浦泰村に嫁いた姫宮の墓がある。 山門の左手、垣沿いの道を、裏山の粟船山に登ると、頂上に木曽塚がある。木曽義仲の子、志水冠者・義高の塚だ。
 鎌倉志によると、昔は常楽寺の西南の田の中に首塚があった。徳川時代の1680年(延宝8年)、田の持ち主が掘り出して、粟船山に葬ったといわれる。義仲が討たれたあと、義高は危険を察して逃れた。やはり追手がかかり、武州の入間川のほとりで斬られた。鎌倉で首実験のあと葬られたのであろう。掘り出された青磁の壷に、枯れ骨が泥にまみれていたという。この地は木曽免と呼ばれていた。
 あれはどの納骨窟を持つ、鎌倉のどこにも葬られなかったことが、哀れをさそう。『吾妻鏡』は1184(元暦元年)4月26日義高の死を伝えている。

● 四代執権 北条経時 没す。
 1246年(寛元4年)3月、経時(つねとき)は病にかかり、4月に死んだ。23歳であった。五代執権となったのが、謡曲、「鉢の木」で雪の一夜、佐野源左衛門常世と語り明かした旅の老僧こと時頼(ときより)である。この時、20歳である。 1247年(宝治元年)5月、鎌倉中に三浦泰村が謀叛を起こす---と、噂がひろまった。執権・泰時の代に聞えなかった例の、血の匂いのする、どす黒い″風″の声であった。
 5月21日、八幡宮の鳥居前に立札が建った。「三浦泰村は、近日 殺される」と書いてある。26日、土方右衛門次郎(ひじかたうえもんじろう)が神社に納めたという願書が、時頼のもとに届けられた。「自分は三浦一族の叛逆にくみするものである。しかし叛乱者として戦うことはできない。願くぱ自分の身を加護してほしい」 この願書がどこの神社に納められたのか、明らかでない。土方という武士は逃亡してしまったのである。あるいは実在しなかったのかもしれない。もともと時頼と甘縄屋敷にある安達景盛の共同謀議であった。

● 三浦泰村・一族自刃滅亡
 時頼の母は、障子の切り張りで倹約を教えた松下禅尼である。禅尼の父が安達景盛だった。三浦氏を倒すことは、安達氏の勢力が増大することにつながる。だが、それが明日の安達氏滅亡に結びつくと、景盛の考えの及ばなかったことは、おろかというほかはない。
 泰村は時頼に異心のない旨をのべ、時頼もまた「貴下を誅伐する心はない」と書面を送った。泰村がひと息入れたとき、景盛は強引に泰村追討の兵を挙げた。時頼の兵が、これに加わったことはいうまでもない。 三浦泰村、弟の光村など一族は、西御門の館を出て頼朝の法華堂に龍った。そこで過ぎ去った源氏挙兵以来の数々を語り合い、互に死出の別れを告げ合った。合戦は6時間に及んだ。力尽きた三浦一族は自ら死を選んだ。その数は500余人、身分のある武士だけでも276人といわれる。
10日後の15日、時頼は泰村の妻・姫官(兄・北条泰時の娘)から「貴下を誅伐する心はない」と書いた手紙を取り返した。泰村は妻に「これは三浦氏の重宝である」と渡し、姫宮はしっかり守札の結に結びつけていたほどである。時頼ははじめから泰村をだまし討ちにかける気だった。 三浦一族の墓は、頼朝の墓に近く、大江広元と島津忠久の墓のやや下方にある。
 1256年(康元元年)11月23日、時頼は最明寺を創建して出家した。30歳のときである。執権職は北条重時(泰時の弟)の子・長時に譲ったが、出家して覚了坊道崇と称した後も、時頼は政治に関与した。

● 五代執権 北条時頼・長時 没する
最明寺はアジサイ寺で知られる明月院のあるところ、つまり明月谷の奥にあったといわれるが、鎌倉市史はこれを疑問視している。 最明寺そのものも、時頼の禅定室(ぜんじょうしつ)であって、一個の寺院とはいえない。寺の住職がいたわけでもないから、時頼の死後すぐに廃されたとのべている。
 時頼の死んだのは1263年(弘長3年)11月22目、最明寺北の亭に座禅を組み、袈裟(けさ)をつけての大往生であった。37歳。 その翌年の1264年(文永元年)8月、執権・長時も36歳で死んだ。長時については歴史は多くを語っていない。時頼についての賛辞はまた多すぎる。彼がよく書かれているのは僧侶を保護したからだともいわれる。だがそのやり口には、いかにも北条氏らしい陰険さとずるさがあった。たとえば死に臨んで記した『業鏡高懸』 37年 一槌打砕 大道担然」の偈は、育王山の笑翁妙湛からの盗作である。それも72年を37年に変えただけだ。かなりあつかましい男であった。

● 日蓮と忍性
1222年(貞応元年)、安房国東条郷で日蓮が生まれた。承久(じょうきゅう)の乱の翌年であった。12歳で天合寺院清澄寺にのぼり、出家した日蓮は、21歳のときから鎌倉の光明寺、比叡山、高野山で修行のあと、再び清澄寺に戻って、法華経の教えが他宗のすべての教えにまさることを説いた。1253年(建長5年)のことである。 土地の地頭・東条景信は念仏宗であった。日蓮は景信と争ったが、追われて小湊から鎌倉にやってきた。鎌倉にはいったのが、その年の4月だから、故郷には2、3ヵ月しかいられなかったことになる。
 鎌倉での日蓮は、松葉ガ谷に草庵を結び、布教のかたわら、草庵の後方の岩窟にこもって『立正安国論』を書いた。草庵跡に建てられたのが、妙法華山安国論寺である。

● 日蓮 伊豆伊東へ配流
 1260年(文応元年)7月、日蓮は『立正安国論』を、執権・北条時頼に献上した。そのなかで日蓮は、国内では乱が起こり、異国の侵略が、まさにはじまろうとしているといい、ことさらに念仏宗を強く非難した。
 時頼は黙殺したが、憤激した念仏宗徒らは幕府に日蓮を訴えるとともに、翌8月の27日、松葉ガ谷の草庵を襲い、焼き打ちした。
 日蓮の草庵跡については、安国論寺のほか北へ150メートル行った楞厳山妙法寺そうであるともいう。さらに安国論寺の南にある石井山長勝寺も草庵跡といわれる。この寺は石井藤三郎長勝か日蓮の弟子となり、自分の屋敷に寺を建て、日除と名乗ったことにはじまる。左手高台にある法華堂は1271年(文永8年)建立と伝えられ、さらに右手後方を上がっていくと祖師堂ガある。ここから由比ガ浜と稲村ガ崎が見渡せる。
 日蓮は松葉が谷の法難は避けたが、結局、念仏宗徒の訴えは、幕府の取り上げるところとなった。日蓮は捕えられ、1261年(弘長元年)5月、伊豆の伊東に流された。1264年(文永元年)5月、日蓮は罪を許された。

● 日蓮 佐渡へ配流
 しかし、1271(文永8年)7月、大干ばつであった。幕府は忍性に命じて、雨が降るようにと祈祷させた。日蓮は忍性の祈祷を猛烈に非難した。祈るより実行せよというのが非難の原因だったようだ。さきにのべた長勝寺の付近に、鎌倉十井のひとつ「銚子の井」がある。
 そこからほど近いところに「日蓮乞水(にちれんこいみず)」(長勝寺前下車、徒歩5分)がある。石の棚をめぐらした井戸で、干ばつに苦しむ農民のために日蓮が掘り当てたと伝えられる。日蓮の実践行動の一端であろう。
水脈を考察して井戸を掘ることは、後年の常識である。だが日蓮の行為は、生き仏のなせるわざと大方には映ったかもしれない。その日蓮もこの月、行合川をさかのぼった左手の田辺ガ池で雨乞い祈祷をやった。
 この池を日蓮の雨乞い池(江ノ電七里ガ浜駅下車、徒歩7分)ともいう。だが極楽寺の忍性も生き仏とうやまわれた憎である。生き仏が生き仏を訴えた。宗教勢力のむき出しの衝突である。
 極楽寺の良観房忍性の訴えにより、日蓮は再び捕らえられ、佐渡に流されることになった。 忍性の訴状には「日蓮が弓矢刀剣を蓄え、庵室に凶徒を集めている」とあった。幕府は日蓮を呼び出して弁明を求めた。
日蓮は「武器、兵員を蓄えるのは法華経守護のためである」とのべ、評定所では幕府に対する暴言を吐いたかどで流罪ときまった。
このとき日蓮の高弟、日朗ら5人も土牢に閉じこめられた。 日朗の閉じこめられた土牢は光則寺(江ノ電長谷駅下車、徒歩5分)にある。行時山光則寺(ぎょうじさんこうそくじ)は開山を日朗とし、開基は北条氏の臣・宿屋光則(やどやみつのり)である。寺の境内は宿屋光則の邸宅のあったところだ。光則は寺社職にあった関係から、日蓮の立正安国諭を幕府に提出した人物である。
 佐渡に流された日蓮が鎌倉に戻ったのは、1274年(文永11年)2月のことである。しかし、日蓮は鎌倉を見限って、5月になると信者の波木井(南部氏)六郎実長(さねなが)を頼って甲斐の身延山にはいってしまった。その10月、蒙古は帝王フビライのメンツにかけて、ついに日本攻撃に出た。10月5日、対馬西海岸佐須の浦を襲い、守護代・宗資国(そうすけくに)を殺し、14日には壱岐を攻略、守護代・平景隆(たいらかねたか)を討った。19日、博多湾来攻、20日には博多など三地点に上陸した。
 迎撃したのは筑前国守護職・少弐資能(しょうにすけよし)の子、景資(かげすけ)のほか豊後の大友頼泰(おおともよりやす)、肥後の菊池武房(きくちたけふさ)、竹崎季長(たけさきすえなが)、肥前の白石通泰(しらいしみちやす)らである。
戦闘は日本側に不利であった。本営の筥崎八幡宮は炎上し、追い立てられた。

● 日忍と極楽寺
ところで、生き仏同士の訴訟に勝った極楽寺の忍性とは、どんな人物であったか。 忍性は1217(建保5年)7月16日奈良県磯城郡(しき)の屏風里(ぴようぶのさと)に生まれた。実朝が渡宋に失敗した年である。父は伴貞行、母は橘氏の出といわれる。16歳で母の死にあったのが出家の端緒となり、東大寺戒壇院で受戒したのち、西大寺の叡尊について修行、律宗復興のさきがけとなった。
 鎌倉にはいったのは1261(弘長元年)だから、日蓮が松葉ガ谷で焼打ちにあった翌年であった。はじめ釈迦堂にいたが、1267(文永4年)、北条長時は極楽寺を修理して、忍性を関山とし、住まわせた。境内は地獄谷といわれたところだ。やはり昔は建長寺境内のように葬場であったようだ。
 極楽寺は真言律宗・霊鷲山感応院といい、奈良西大寺の末であった。江ノ電極楽寺の駅付近で、右手に極楽寺のトンネルを見て架線の桜橋を渡ると左に山門が見える。年代を感じさせるが、1863(文久三年)の再建といわれる。意外に新しい・石畳の突き当たりに小さい本堂、本尊の木造釈迦如来立像、同坐像は重要文化財である。この本堂は七堂伽藍、四十九院を誇った金盛時の一院、吉祥院の名残りで、建物は改築されている。
 1315(正和4年)7月9日、極楽寺に塔が建立されて供養が行なわれた。その塔は十三重の大塔であった。年代から推して、この日本一の大塔が完成したときには、金銅ハ丈、日本一だった鎌倉の大仏はすでに倒壊していたと思われる。
 大仏といい、十三重塔といい、日本一をこしらえずにはいられない北条氏であった。地震につきまとわれた鎌倉で、背伸びのための努力を払うようすはいじらしいばかりであった。しかし、翌1316(正和五年)についで、1323年(元亨三年)にも鎌倉は非情な大地震に見舞われた。せっかくの大塔は、大仏と同じ運命を辿ったものと思われる。
 忍性の業績については「上一人より下万民に至って、生身の如来と是を仰ぎ奉る。(略)飯島の津まで六浦の関米を取ては諸国の道を作り、七道に木戸を構え、人別の銭を取ては諸河に構を渡す」と、その社会事業は高く評価された。死後に菩薩号をおくられたゆえんである。
 しかし、日蓮は忍性をこう見た。「飯島の津まで六浦の関米を取る、諸人の嘆き是多し、諸国七道の木戸、是も旅人の煩ひ、此事にあり、眼前の事なり、汝見ざるや否や」そして「今の律僧の振舞を見るに、布絹財宝を貯え、利銭借請を業とす、数行既に相違せり」ときめつけ、だれがそんなまやかしの社会事業を真に受けるかーーーと非難した。これを見ても、衝突が超こらなければ不思議である。
 忍性は晩年は奈良に戻って、東大寺の幹事や四天王寺の主務となった。没年は1303(乾元2年)7月、87歳であった。しかし、忍性の墓(忍性塔)は極楽寺本堂脇の裏口を出て、西北へ稲村ガ崎小学校を目指し、グラウンドのネット裏から左の山道をのぼった極楽寺の墓地にある。往昔は小学校の校舎の辺りが極楽寺本堂、忍性塔のあたりは奥の院と見られる。いまの極楽寺から徒歩約10分、規模の大きさをはかり知ることが出来よう。
 忍性の墓は高さ四メートルの五輪塔、その左手の宝鏡印塔は北条義時の三男・重時(泰時の弟)の墓といわれる。また墓地の東の山腹には極楽寺二世・忍公の墓もある。高さ3・6メートルの五輪塔である。
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