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源頼朝の開幕から頼朝の死
政子と悲劇の将軍・頼家と実朝
実朝暗殺 源氏の滅亡
北条一族の執権・日蓮と忍性の対立
蒙古襲来と北条氏の滅亡
湘南物語は下記の文献を参考にさせて頂いております。ここで深く御礼申し上げます。
湘南物語 参考文献
血風で生まれた鎌倉文化・謀略と血しぶきの鎌倉
源頼朝の開幕から頼朝の死 政子と悲劇の将軍・頼家と実朝 実朝暗殺 源氏の滅亡
北条一族の執権・日蓮と忍性の対立 蒙古襲来と北条氏の滅亡
◆ 蒙古襲来と北条氏の滅亡:鎌倉時代の終焉

● 蒙古襲来敗退
日本軍は太宰府まで退却のほかなかった。敗因にあげられるのが、鉄砲であり、強弓から放たれる毒矢であり、長槍であった。 鎌倉末期から発達する日本の槍は、元との戦闘から得た教訓のたまものだ。この戦闘に見られた元軍の集団戦法は、日本の一騎討ち武士道をじゅうりんした。日本側では、戦意を失って戦場から逃亡する武士が続出したのである。
 その夕暮れ、高麗軍の将・金方慶は、敗走する日本軍を太宰府に追って、一気に勝利をつかもうとした。元の総将・忻都(きんと)は軍兵を船に戻すことを主張して意見が割れた。しかし、元と高麗の軍は船にしりぞいていった。
 これは元の軍船が南宋の海軍力に頼っていたため、上陸しての戦闘中に、南宋人が元車を置きざりにして船で逃げてしまうとを恐れたのである。
 その夜、大風雨が越こった。元と高麗の軍船は難破して、連合軍3万3千人のうち1万3千5百人が失われた。これを神風と日本では呼んだ。10月20日といえばいまの11月末である。だから撤退け元の予定の作戦だったともいう。『元史・日本伝』は「官軍整わず、また矢尽く」といっている。 文永の役の報告は幕府に衝撃を与えた。まさかと思った一大軍団がやってきたのである。南宋から来日した禅僧の考えた以上に、フビライの行動力は大きかった。
 1275年(建治元年)4月、蒙古の国使・杜世忠(とせいちゅう)ら5人が長門国室津に着いた。杜世忠らの役向きは宣論使、「無駄な抵抗は止めよ」といいにきたのである。9月、執権・北条時宗は竜ノロでこれら五人を斬った。
 竜口寺の西北300メートルに常立寺(じょうりゅうじ)という日蓮宗の寺がおる。山門の左側に並ぶ五基の五輪塔は元使五人塚とよばれている。
 1279年(弘安2年)7月、再び元使が筑紫に着いた。幕府はその場でこれを斬った。 1281年(弘安4年)5月、高麗軍はまず対馬を侵略、6月に元軍もこれと合流し志賀島、長門を襲った。こんどは元も明らかに日本を属国とするのが目的だった。蒙古・高麗軍4万人、船900隻の東路軍と旧南宋の蛮子兵(元は南宋を侮って蛮子と称したが、文化の程度は南宋に遠く及ばなかった)10万、船3500隻の江南軍は、日常生活のための調度品からスキ、クワまで用意して、日本永久占領を企てたのである。
 日本軍は少弐景資(しょうにすけよし)と鎌倉御家人中の実力者、安達泰盛(あだちやすもり)の子の宗景が加わって諸将を指揮した。東路軍と江南軍は合流できずに、6月末に東路軍が壱岐に撤退したあと、江南軍が平戸島に着くというありさまだった。
そして7月1日夜、大暴風雨によって全軍の8割近い10万7千人を失い、元の日本占領は挫折した。これこそ日本にとっては定期便の台風であり、タイムリーな″神風″であった。世にいう『弘安の役』である。

● 日蓮 ・八代執権・時宗 没す
この翌年10月、日蓮は慢性の下痢で苦しみ、身延山から常陸に湯治に赴く途中、池上宗仲の屋敷で没した。10月13日、61歳であった。
 1284年(弘安7年)4月4日、時宗34歳で死んだ。1294年(永仁2年)、フビライもまた没した。フビライの死は日本遠征にのぼろうとした矢先であった。しかし二度の遠征に失敗した中国の疲弊と、民心の離反がフビライに大きな足カセをはめたことは確かである。
 一方、日本でも国難に当たった武士団に、幕府は恩賞の出しようがなかった。分け与えるべき領地がどこからも捻出できなかったのだ。土地に対する武士たち、つまり地主の執念は象徴的な鎌倉武士の一人といわれる熊谷次郎直実の例でも明らかだ。
 熊谷直実が1192年(建久3年)出家して法然の弟子となったのは、平家の公達・敦盛を討ち取って無常を感じたからなどというきれいごとではない。熊谷氏と隣接する久下郷の地頭・久下氏と、わずか4反(4700余平方メートル)ばかりの湿田の所有権争いが原因である。
 元寇に際して九州の武士団加大活躍したのも、日本国のためより、自分の領地を守るため真剣にならざるを得なかったのだ。働き損のくたびれもうけーーー武士団の不信感はふくれていった。幕府はこうして斜陽の影をひきはじめたのである。 時宗については、国難をしりぞけた大功がうたわれ、名執権のきこえが高い。事実は父・時頼、同様に相当の策謀家であった。文永9年2月15日には北条氏の同族争いから、六波羅(ろくはら)の兄・北条式部丞時輔を京都で殺した。またそれより4日前の11日に鎌倉では評定衆の北条時章(ほうじょうときあき)(名越尾張入道)、北条遠江守教時の兄弟が殺された。この2人を斬ったのは大蔵次郎左衛門ら5人の武士だが、秘密のもれるのを恐れた時宗は、この5人も捕らえて首をはねた。真剣に国難を憂うる執権の態度ではない。 時輔、時章、教時の3人は、まったくわけもわからずに殺されたのである。北条氏もまた源氏を滅亡に追い込んだ道を自ら歩みはじめていた。

● 九代執権・貞時
 時宗のあとをついだ九代執権・貞時は14歳であった。ここで権勢を得たのは安達氏である。安達景盛が時頼の外祖父であったように、泰盛は貞時の外祖父であった。泰盛の子、宗景は「曽祖父・景盛は頼朝の子である」と称し、源氏を名乗った。
 これに着目したのが北条貞時の家令・長崎頼網である。1285年(弘安8年)11月、安達宗景謀叛の心ありーーー安達奏盛、宗景父子は頼網に誅された。北条氏の被官はこれほど強大なカとなっていた。
 安達派と見られて殺されたのは、刑部卿相範(ぎょうぶきょうすけのり)、三浦対馬前司(みうらつしまさきのつかさ)、懐島隠岐入道(ふところじまおきにゅうどう)、伴野出羽入道(とものでわにゅうどう)、大宰少弐(だざいしょうに)、大曽祢上総前司(おおそねかずささきのつかさ)、足利上総三郎(かずさのさぶろう)、南部孫次郎(なんぶまごじろう)らであり、泰盛の娘を妻とした金沢(安達)顕時は上総に流された。この事件を『霜月騒動』(しもずきそうどう)という。
 1293年(正応6年)4月22日夜明け、貞時は経師ガ谷に長崎頼網と次男・肋宗を斬り、長男・宗綱を佐渡に流した。
経師ガ谷には頼網屋敷があったらしい。貞時は23歳になっていた。霜月騒動における頼網の奸計と、その後の専横を憎悪しての上意討ちであった。
 貞時は31歳で出家し、1311年(応長元年)10月26日に41歳で死んだ。

● 十四代執権・高時
その子・北条高時は1323年(元亨3年)10月、14代執権として父・貞時の13年忌の仏寺を円覚寺で盛大に行なった。このとき極楽寺に非人施行料として銭百貨文を贈っている。忍性は 1303年(乾元2年)7月に87歳で死んでいるから二世・忍公のときであろう。忍性は貧困者救済のための悲田院や医療所を設けたが、前にのべたように非人は乞食、物乞いという近世の見方は当たらない。
 非人ははじめ僧侶の意味で使われ、中世期では半僧半俗の呪術者、または俗人とかけはなれた高度の技術者である。 ちなみに、極楽寺由緒沿革書によれば、はじめの極楽寺は、平安時代の永久年間(1113〜18年)に僧・勝覚が創建した。その地は深沢の里であった。そこは梶原、大庭氏の祖・鎌倉権五郎平景政の私領、のちの大庭御厨である。
 鎌倉を取り巻く形で、梶原の御霊社、長谷の御霊社には、頼朝の胤を宿した″おかめ″一人を加えた非人面行列の行事が伝わる。御霊社とはこの世に怨みをいだく霊魂をしずめるため杞った社のことである。非人はやはり、表向き御霊社の奉社人や木地屋、そして鎌倉開府いらい″風の声″で黒い噂を流した″忍び″の正体だったの
ではなかろうか。 とすれば銭百貨文の施行料は安すぎるくらいである。

● 元弘の乱
 さて、1322年(元亨(げんこう)二年)、奥州の豪族・安東氏は一族間の領地争いを幕府に訴えている。執権・高時に実権なく、政務は内管領・長崎高資が牛耳っていた。この高資、訴訟人の両方から賄賂を受け、裁決を下なかった。悪徳弁護士のはしりのような男である。このため安東氏はともに叛乱を起こした。幕府に鎮圧の力はすでになかった。
 京都ではこうした鎌倉の情勢を討幕の機と見た。後醍醐天皇を中心に参議・日野資朝、俊基らは詩会や遊宴と称して謀議を重ねたが、1324年(正中元年)9月、六波羅の探知するところとなり失敗した。『正中の変』である。
 後醍醐天皇は、さらに延暦寺、興福寺の寺院勢力を味方に引き入れ、機会をうかがった。これは1331年(元弘元年)4月に朝廷方の古田定房が六波羅に密告したため、主諜者の日野俊基、僧・文観、円観が捕われた。後醍醐天皇は河内の楠木正成を頼ろうとしたが、宇治の平等院で捕えられ、翌年2月、隠岐島に配流となった。
 楠木正成は河内・赤坂で戦ったが、敗れて姿をくらました。『正中の変』で佐渡に流罪となっていた日野資朝は斬られ、
俊基も鎌倉に送られ、葛原岡で斬首された。これが『元弘の乱』である。

● 北条一族滅亡 鎌倉時代の落日
乱後、楠木正成をはじめとする諸国武士のゲリラ的蜂起はいよいよ活発化した。天台座主として叡山にあった後醍醐天皇の皇子・尊霊法親王も還俗して護良親王(もりながしんおう)と称した。討幕の火は護良親王を中心に飛び火を重ね、ついに六波羅を、鎌倉を焼き落とす火勢をもつにいたった。
 1333(元弘3年)の前半は、183(寿永2年)いらいのまったくあわただしい戦乱の明け暮れであった。前年11月、護良親王の吉野挙兵、行方不明だった楠木正成の千早城挙兵についで、正月には赤松則村が播磨で、2月に後醍醐天皇も隠岐島を脱出、伯耆の名和長年(なわながとし)がこれを奉じた。
 鎌倉幕府はこの追討軍大将に足利高氏(のち尊氏)を命じた。高氏は、極秘裏に一族の上杉重能、細川和氏を伯耆に送って勅命を受けさせ、なに食わぬ顔で京都にはいり、さらに丹波に向かった。ここで全軍の結集を終えた高氏は5月7日、「敵は六波羅にあり」と馬首をひるがえしたのである。
 電撃作戦であった。六波羅はその夜のうちに潰滅し、落人となった探題の北条仲時は、2日後の9日に近江番場で自殺、時益は守山で土着の武士団に討たれた。この尊氏の戦法は、のちに明智光秀が踏襲して、本能寺の変を成功させている。
 上野国の豪族・新田義貞が、新田郡生品明神の社前で挙行したのは5月8日である。 新田軍は利根川を渡り、14、5両日は多摩川の分倍河原の合戦で、北条高時の弟・泰家を破った。鎌倉に迫ったのは、5月18日であった。
 義貞は全軍を三つに分け、巨福呂坂口に堀口貞満(ほりぐちさだみつ)軍、極楽寺坂口に大館宗氏(おおだてむねうじ)軍、化粧坂には総大将・義貞と弟の脇星義肋(わきやよしすけ)が向かった。
 防衛軍の将は、巨福呂坂は金沢貞将(かなざわさだまさ)、大仏貞直(おさらぎさだなお)が極楽寺坂、相模左馬助高成(さがみさまのすけたかしげ)らが布陣した。 
 義貞の兵は、18日に早くも稲村ガ崎から鎌倉に進入して、海浜の家に放火した。しかし、高時勢の諏訪、長崎氏の兵はこれを撃退したばかりか、極楽寺坂口の攻め手の将・大館宗氏を稲瀬川の浜に討ち取って雲仙山(82メートル)に陣をしいた。ここは極楽寺境内のうちといわれ、霊山寺という寺もあったこの山門に龍った北条勢は、稲村ガ崎の新田軍を散々に射殺した。
霊仙山と、それにつづく海辺の山塊が屈強の砦であったことは、登って見れば容易にうなずける。
七里ガ浜、由比ガ浜と相模湾のながめ、鎌倉の市街、江ノ島。冬の晴天にのぞむ三浦半島、丹沢山塊、富士山ーーーーここは鎌倉有数の展望台である。
 この山塊は断崖となって海に落ちこみ、二つの突端を持っている。ひとつが稲村ガ崎、それより鎌倉寄りの鼻は霊山ガ崎という。
 山頂の眺めに魅せられて、大正元年に別荘を建てた人がある。コレラ菌や結核菌を発見し、ツベルクリンを発明して、結核予防に貢献したドイツのロペルト・コッホ博士だ。出頂にはコッホ博士の記念碑が建っている。明治42年7月、コッホ博士とともに鎌倉に遊んだ北里柴三郎博士らによって建てられた碑である。
 稲村ガ崎の合戦描写は、北朝側の戦争文学『梅松論』と、南朝側の戦記物『太平記』では少々違う。
 太平記によれば、5月19日早朝、本間山城左衛門は極楽寺坂に向かい大館又次郎宗氏を討ちとった。このため新田勢は片瀬、腰越まで退却した。新田義貞は21日の夜半、片瀬から腰越を回り、極楽寺坂に回った。やがて明けようとしている月明かりをすかして、敵のありさまを見ると、北は切り通しまで山高く、道もけわしい。そこへ木戸を構え、備えの垣や楯を押し立て、数万の兵が布陣している(「これは、とても切り通しを突破できぬわい」と義貞は唇を噛んだ。では、と海を見つめる)。
 南は稲村ガ崎。波打際の道は狭いうえに、逆木をびっしりと並べ立て、通行を阻んでいる。おまけに海上4、500メートルには軍船が矢倉から、義貞軍の通行を待ち受け、矢をつがえて構えている(「いかん、一気に馳け抜けないと味方は皆殺しだ」−−そこで義貞は……)。
 竜神に祈りをささげた義貞は、黄金造りの太刀を腰からはずして海中に投じたのである。「真に竜神納受やし給ひけん、その夜の月のはいる方に、前々さらに干ることもなかりける稲村ガ崎、にわかに20余町千上りて平沙渺(へいしゃぴょうぴょう)たり。横矢射んと構えぬる数千の兵船も、落ち行く潮に誘われてぱるかの沖に漂えり。
不思議というも類(たぐい)なし。義貞これを見給ひて、6万余騎を一手になして、稲村ガ崎の遠干潟を真一文字にかけ通して、鎌倉中へ乱入る」 勇しい合戦の件(くだ)りだが、『梅松論』によると、新田軍の将・大館宗氏は18日に稲村ガ崎を越えて由比ガ浜になだれ込み、討たれたのである。ただ「ここに不思議なりしは、稲村ガ崎の波打際、石高く道細くして、軍勢の通路難儀のところに、にわかに潮ひきて、合戦の間干潟にてありしこと、かたがた仏神の加謹とぞ人申しける」なようだ。この干潮現象が義貞軍を有利に導いたことは確かのようだ。
 北条高時の諸将も立派に戦った。敗れたのは、時代の流れに抗し切れなかったにほかならない。北条氏は実に辛抱強く、源氏の芽を嫡みとった。しかし、田舎源氏を滅すだけの実力も時間もなかったようだ。
 清和源氏の系図をひろげればわかるように、ハ幡太郎義家を祖とするのは、源氏正嫡のほかに、上野国の新田源氏と下野国の足利源氏。新羅三郎義光を祖とする常陸国の佐竹源氏、甲斐国の武田源氏がいた。
 このうち新田氏は、やがて迎えようとしている建武の中興にさき立って、″皇国史″のなかでぱ唐突といいたいくらい突然に、稲村ガ崎で「ええカッコウ」見せるのである。
 新田氏が鎌倉幕府の容れざるところであったことは明らかだ。元弘2年、楠木正成の千早城を攻め立てていた一軍が新田義貞勢であることは、余り知られていない。この新田勢がフッと兵を退いて、国に帰ったかと思うと、朝廷側に立って鎌倉攻めの主力となった。
とても忠義の志と手放しでいえる話ではない。打算と北条氏への欲求不満が″競合″爆発したのだ。
 昭和28年5月、東京大学人類学教室の鈴木尚助教授が材木座の鎌倉簡易裁判所の用地、つまり大鳥居から由比ガ浜に向かう道の左側を発掘して、850体の人骨を見つけた。ほとんどが成年男子だが、女性もふくまれていた。しかも例外なく骨に刀傷かおる。大量虐殺が行なわれたと見ることができよう。
 鶴岡ハ幡宮は源氏の総鎮守である。その鳥居前を、大量殺人でけがしたことは、源氏一族のやり方としてうなずけない。そこで、こう考えなおして見る。 北条氏は、源氏と八幡宮をダシにして、陰謀を重ねつつづけた。新田義貞は滅び去った愚かしい源氏正嫡への弔心から、大量のいけにえをあえて社前に供えたのであるーーーーと。

 1333(元弘3年)5月22日、北条高時は敗残の将士1000余騎をまとめて、葛西ガ谷の東勝寺に立てこもり、腹を切った。31歳であった。高時の自殺に殉死した武士は283人。死の宴を見守っていた下級武士たちも、黒煙と炎のうず巻く伽藍で刺し違え、折り重なって死んだ。その数は合せて870余人と伝えられている。141年にわたる鎌倉幕府のページはここに終わった。
 高時の腹切りやぐらは、東勝寺跡から屏風山の山腹に向かったところ。小さく粗末な石造多宝塔が、ポツンと、ひとつだけある。
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